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もしもし

トントントン、トントントン。目覚めたときにはもう、市子は既に大量の人参を切り進めていた。トントントン、トントントン。こちらに気づいてはいないのか、その手が止まる様子はなかった。わたくしは包まっていた毛布から顔だけを出し、暫く様子を伺った。へんてこなリズムを刻むように、トントントンとまな板と包丁がぶつかるのも時が経つにつれ心地良くも思えてきた。すると、市子はこちらを見ようとはせず、おはようとだけ発した。なんだ、わたくしが起きていたことに気づいているではないか。わたくしはちょっとだけ腹が立ったが、喉が乾いていたので水を飲もうと立ち上がりそんなことはすぐに忘れていた。立ち上がってから気づいたのだが、この部屋は思っていたよりも暗く、市子の立つキッチンだけがぼんやりと光っているようだった。なぜ今日はこんなにも暗いのだろう。そんなことを考えていたら、いつの間にか市子はわたくしの目の前に立っていた。昨日も言ったけど、私はしばらくの間この家を離れるからね。市子は何日も前からわたくしにそう語りかけてくるが、なぜ離れるのかは教えてくれなかった。いっしょに住み続けるのって、やっぱり難しいのよね、お互いに動物だから。そう宥められるので、わたくしも強気には出られなかった。
水が底を尽きたころ、市子は切り刻んだ大量の人参をわたくしに差し出し、目から涙を溢れさせながら、こんなことしかできなくてごめんねと言った。市子は、すぐに迎えに来るからね、と泣き喚きわたくしを困らせた。それから、ドンドンと響く扉の向こうから聞こえる、お迎えですよという声のあと、市子はすうっと消えたのであった。
市子が姿を見せずに二週間ほど経ったとき、底をついたのであろう人参と空のペットボトルと乾いた毛布の下から見つかったわたくしは、やはり市子の目には写ることすらなかった。トントントン、トントントン。わたくしはいまでも夢に市子を見るが、目の前には市子ではない新しい飼い主がニコニコと笑う。今度のわたくしは、るりちゃんと呼ばれ、白い毛を纏ったウサギとなった。あの日、市子に抱かれたわたくしはもう何色だったのかも思い出せそうにないまま、ただ淡々と新たな死へと駒を進めるのであった。

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