多文化社会の罠
本日のゼミで先生が、「多文化社会の罠」として、「多文化社会を進めたこの社会では、人種、趣味、性格などなどがある程度容認され寛容なものになっているし、理解され始めているが、それらは意外と混じり合うことなく多文化社会の中で似たものが集まりコミュニティをつくる。」という感じのことを言っていた。このような発言があったきっかけはゼミ室で私たち12人のゼミ生が似たような価値観を持っていそうな人間と固まって座っていたからだ。
現在、日本において技能実習生として日本に来る東南アジア、インドの人たちが職業として日本人と関わること以外のプライベートであまりコミュニティが混ざり合っているようには思えない。もしかしたら、技能実習生のなかでもコミュニティが国籍によって変わっているのかもしれない。多文化社会は、外面だけは色々な要因で急速に進むのは道理だと思う。経済とか環境とかが要因で。そもそも似たような境遇、バックグラウンドを持つ人間にシンパシーを感じるのは当たり前だし、そう言った人と仲良くするのはごく当然のこと。
とはいえ、本当の意味での多文化社会を築かない限りは、今後外面だけで多文化共生が続くこの社会多くの問題が生じるだろう。なんとか共生を進めるためには、個々人が働きかけるよりも、当人ら周辺のコミュニティが他所のコミュニティと接触する機会を持つ意識改革が必要だと思った。それは趣味とか娯楽など別に何しててもいい、どんな思想があってもいいコミュニティではなく、同じ街に住んでいるとか、同じような職場で働いているとかそういった生活を営む上で欠かせないコミュニティのことだ。そのような必要なコミュニティ内にどうでもいい固定観念とか偏見を入れて、共通の偏見を持った人同士でコミュニティを作るのではなしに、そこら辺ではちゃんとオープンな姿勢をとるような意識を持てるようになっていくといいんじゃないだろうか。
なんてことをつらつらと書いている私は全くもって社交性とかがないので、そんな意識を持てるように、まずはゼミから積極的とは言えないながらも、いろんな人と関わっていこうと思う。
無理だな。