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寝る前のメモ。


この状況下で「生きていく」ために必要とされているものと、必要とされていないものの2つが存在するのなら、わたしのやっていることは限りなく後者にあたる。あってもなくても、だれ一人として困らない(どちらでもいい)ことを、だれから頼まれたわけでもなくせっせとやっている。

わたしには、何もかもを背負えるほどのうつわも覚悟もないので、この場所に得体の知れない生きものとして「生息している」くらいのゆるさがちょうどいい。そんな考えとは裏腹に、勢いだけで動いてしまうこともあるのだけど、その衝動はなかなか止められるものではないので良しとする。


いまは多分、人生で2番目くらいに後先を考えていない。

1番目は言わずもがな、バスケットボールをしていた時期のことで(小学2年生から大学3年生まで)、それ以外のこのなんてなにも考えていなかった。その後は、わからないなりにも多少は先を見据えて動いてきたと思う。

だったのだけど、イタリアに行けなかった反動もあってか、どこかでブレーキが外れてしまったようで、後先を考えずにひとまず動いている感覚だけはある。4月10日の出発予定日まで、ほぼほぼ真っ白だったカレンダーがこれだけ埋まったのだから、放っておいても生きる術は見つかるのだと思う。

どれが仕事で、仕事じゃないなんて、仕事さえ終わらせていれば問題ないでしょう。だからいまは、自らをカオスの渦のなかに放り投げている。仕事じゃないこともタスク化して、出来得ることすべてを消化していく。見えない何かに追われている気もするけれど、人間らしくていいんじゃないかな。笑われてもいいし、咎められてもいい。失うものはない。


自分自身できつく結んだ紐を、解いていくような日々。

いつかひとりでやろうと後まわしにしていたことが、どんどん表に出てくる。必要だと思うことと、やりたいと思うことのバランスが、ひさしぶりに逆転している。プロセスを大事にしようとしすぎて、脳内に留まっていたことが、見切り発車でどんどん動いていく。そのくらいの軽やかさを、知らない間に失っていたのかもしれない、とさえ思う。

今年はなにをしても許されそうなので(だれに許しを乞うているのかわからないけれど)、とにかく外へ外へいろんなものを出していく。1年後にはどれかが当たっているかもわからないし、全部外れているかもしれない。

それでもいいと思えることを、少しだけスピードを早めて出していく。あとは、信じ抜けるかどうかかな。

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