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寝る前のメモ。


歴史や文化は壊すことよりも守ることの方が大変なのだけど、たとえ失われてから気がついたとしてももとの形に戻ることはない。

カエルの権利を主張するわけではないけれど、野苺を食べ、ザリガニを釣り、秘密基地をつくって遊んでいた身としては、容赦なく進められる圃場整備を目にすると、もう少しそういう環境が残っていてもいいのではないかと思うことがある。二代、三代先の営農がどういうものになるか、何が農作物の付加価値を高めていくのかを考えたことはあるのだろうか。目の敵にしているわけではなくて、もうすこしその辺りは時間をかけて考えてもいいんじゃないかと思うわけです。

週末は、近所で行われていた円墳の発掘調査を見学してきました。古墳中期初めの古墳のようで、発掘されたての生(?)の埴輪も見せていただき、いつか古墳の中身を見てみたいと思っていた身としては願ったり叶ったりの時間でした。粘土と野焼きで埴輪をつくるワークショップはいつかやってみたい。

会場に展示されていた割れた埴輪を、立体パズルのように組み合わせている少年がいて、夢中になれるってやっぱり楽しいなと思うのでした。何かに夢中でいられる時間があるということは、平和を構成する一部だとしたら、私は子どもたちが夢中になれる時間を少しでも多くつくることに注力していきたい。

そのために、まずは大人の方々を実験台にしていこうかな。

・・・

「最近、何してるんですか?」という質問に、どうもうまく答えられていない。はじまった事業ばかりで、会社と個人事業を組み合わせていて、一年を通して内容もバラバラで、直近の記憶しか残っていない。本当は2秒くらいで返したいところを、はぐらかすつもりはなくても「何してるんでしょうね」と整理する時間を5秒ほどいただく。

さまざまなかたちで事業をつくってきた人たちと話していると、私にはやっぱりカリスマ性がまるでないのだと感じる。勘がまったく働かないわけではないと思うのだけど、野性味のある突発性がないというか、どこかでセーブしてきてしまったというか。「会社やるなら好きなことしかやらないって決めたんで」というひと言に、なぜか羨ましさを感じてしまって、その理由を探したいと思っている。

自身のことを考えてみると、好きなことをしてきたと誇れる一方で、どこかで公共性を考えすぎているのかもしれないことに気がついた。これまでやってきた事業の性質として必要とされてから動き出すことは多くても、なくてもいいかもしれないけれどあったら楽しくない?みたいな切り口のことはしてこなかった。

これまでのことは大切にしながらも、もう一度ゼロイチをやってみたい。

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