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寝る前のメモ。


振り向きざまに左首をグキっとやってから1週間以上が経ち、今朝は右首を寝違えた。枕に対して頭が斜めに刺さっていたものだから、薄目を開けながら嫌な予感があった。首、ちゃんと労らないとね。

今日は、これまでの取り組みを「つながり」という切り口で聞いていただいたのだけど、ものの見事に話せなかった。撃沈。普段からあまり「つながり」ということを口にしないものの、側から見れば私がやっていることは「つながり」の中にある。企画書をいただきながらも、身近すぎて言語化できていなかったことに気づき、お風呂の中でずっと、自分にとって「つながり」とはどういうものかを考えていた。

「人と人、人と場のつながりを紡ぐ。」という会社にいながら、「つながり」について言語化できていないのはあまりよくない気がしてきたので(というか、思い出せなかっただけかもしれないけれど)、定期的に「つながり」について言語化していこうと思う。

私がつなぎたいのは、「地域」と「人」。「地域」は京都府内各地(場合によっては日本国内や亀岡市内)で、「人」は国内外にいるさまざまな人。そのなかで、商店街振興や移住促進、コミュニティ・ベースド・ツーリズムの取り組みを行っている。

(最近はそれに加えて、「おうちでゆっくり、かめ時間。」というオンラインストアをはじめた。)

すべての根底にあるのは、「地域」と「人」のさまざまな関わり方(応援・消費・滞在・教育・創作)をつくりたいということで、それらを総称すると「つながり」をつくるということになる。

なぜ「つながり」をつくりたいのかというと、私自身が心豊かに暮らすために必要なものだから。身のまわりにやさしい経済循環をつくりたいという気持ちもある。(ここで触れると長くなるけれど、貧困地域の経済開発を勉強するうえでずっと引っかかっていた部分でもある)

無意識のあいだに人とのつながりを必要としているのは、「ソーシャルキャピタル」が構築されている状態に対して心地良さを感じているから。何かを気軽に頼めたり、声をかけたり、一緒に取り組んだりできるコミュニティがここにあることに、安心を感じている。それに加えて、土地とのつながり、歴史とのつながり、自然とのつながりなど、過去や未来とのつながりを意識できる環境にいることも大きい。

無数のつながりが、多角的に存在している。


「つながり」は時として「しがらみ」になるケースもあるけれど、そもそも私は一人では生きていけないし、ベースとなる「コミュニケーション」をしようとすれば、相手もとって食うようなことはしない。まあでも、父母を見ているとそんな簡単ではない気もしているし、よっぽど難しい場合は、いい距離を保つしかないのだけどね。


うーん、どうだろう。これで5割りくらいは言語化できたかな。

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