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寝る前のメモ。


自分自身が信じたいこと、成し遂げたいことはあるけれど、自分のことを常に正しいと思うのは少し違うと思っている。

不安や自信のなさから断言できない、というわけではなくて、どれだけ気をつけていても人間は誤ちを犯す生きものだし、いつ何時も冷静に判断できているとは限らない。感情は常にアンコントローラブルだと思っておいた方がいい。いつも自分に疑いをかけるのは嫌だけどね(笑)。

自分が受け取る感情は合わせ鏡のようで、相手の言動が気になるときは、自分自身の言動があまり良くないのかもしれない。

もちろん、相手が感情的になっていたり不安になっていたり、あるいは別の要因で焦りを感じていたりするケースがあるので、相手の言動が100%ではないのだけれど。自分が穏やかに過ごせているときは、まわりのみんなも穏やかに過ごしてくれているのだと思う。



なるべく友だちは固定化せず、中学生の時もクラスみんなと話す裏目標をつくっていたり、大学も毎日違う友だちとごはんを食べていたりしていたし、留学中も意識的に3つぐらい別のコミュニティに参加していたし、極端に誰かと「合わない」ことはこれまでなかったんじゃないかな。考え方とか価値観が違うな、と感じることはあったと思う。

ある意味それは、そもそも他人に期待していなかったり(もちろん自分にも)、あるいは踏み込めていなかったりするからかもしれないけれど、急激に関係が悪くなることはなかったと思う。(わたしのことをよく思っていない人がいたら、それはごめんなさい。笑)



なんとなく、自分が「コミュニケーション」にこだわる理由がわかってきたかもしれないな。もともと、どうすれば争いがなくなるのか?ということを小学校くらいから考えていて、平和的解決は「対話」からはじまることを大学生の時に知った(中東和平を集中して勉強していた頃)。

それに加えて、わたし自身自分の気持ちを「伝える」ことがとにかく下手くそで(嬉しいときは多分伝わっているかな)、でも、一対一で相手が聴いてくれていることがわかったら安心して話せるようになったし、そういうスタンスみたいなもの次第なんじゃないかなと。

大人になるにつれて、自分なりのリズムや型、あるいは癖のようなものもわかってくるなかで、ニガテだと感じることとはまだ向き合う余地があるかな。移動に制限がかかってから1年が過ぎ、可動性はとても低い今ですが(精神的にフリーになりづらい)、自分自身のことだけは固定せずにいよう。

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