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寝る前のメモ。


過去と未来に捉われてはいけない、というのは二千五百年前にお釈迦さまがおっしゃったことで。
(中略)
西洋の近代合理主義は、過去と未来という時間の流れの中で現在を考えるでしょう。でも、それっと本当なの?って、すごく気になるんですよね。というのは、いろんな人を見てきても、目の前のことを忘れている人が多すぎるから。今、みんなそれで悩んでいますよ。人生は本来、ケ・セラ・セラ。明日のことなどわからないはずなのに、みんな過去にとらわれ、未来のことを考えている。
鈴木敏夫著『禅とジブリ』より

今はとにかく「いま」に真っ直ぐでいいと思っている。年が明けた頃から、2020年はそういう年にしようと予定していたし、それがたまたまこういうかたちになったのであれば、“それならそれで” というスタンスで日々を過ごしていくのがいい。不要になったものを手放すというよりは、自分自身が突き進みたいほうへ100%を注ぐ。適度にゆるめながらも、締めるところは締める。

不満はないのだけれど、ずっと満足はしていない。そのあたりの感覚は、部活を引退した高校3年生の頃から続いているのだと思う。バスケットボール自体はその後も続けていたけれど、寝ても覚めても・いつ何時もひとつのことしか考えていなかった(ほかについて考える必要がなかった)あの頃を少々羨ましく思ってしまう。同じだけの情熱を注いでいるはずなのに、大人になるにつれて社会との接点ができたことで、純度が失われてしまったような気がして。

それが、成長をすることや、社会人になるということならば、もう一度それを手放してもいいのかもしれない。3月頃からはじまったこの生活に、心地よさと小さな覚悟が生まれてからは、ずっとそんなことを考えている。ようやく見つかった情熱の注ぎ先に、すべてを託したい。


先のことを考えていない訳ではないけれど、むしろ最近は先のことを考えすぎていたのかもしれない。過去については苦労も含めて忘れる質で、何かをやった瞬間からすべてが過去になる。これまでに何をやっていたかは、人前で話す機会をいただいたときにはじめて思い出せるぐらいなので、こうやって毎日メモをとりながら、いつかの役に立てばと思っている。(基本的には、過去の投稿を見ないのでそもそも役に立たないかもしれないけれど)



客観的に考えると、やっぱりわたしは地元の生活に退屈しているのだと思う。

なにかをしながらここに住んでいることで、バランスが取れていただけなのだと。4年前に働きはじめ知り合いが増えてからは、一段とたのしく過ごせるようになってきたけれど、それでも根本にあるのは退屈やマンネリなのだということに、こうやって書きながら気がつく。何かをしている人に対して悶々とコンプレックスや羨ましさを感じるのも、そういうところからきている。それらを解消するために(?)、なにもしないままではいられなくなっている。いまは少々はちゃめちゃでもいいからとにかく前に進みたい。

都会的なものよりも自然のほうが居心地がいいので、いまはこの場所にいるけれど、もっと水が合う場所を知らないだけだとしたら、それはそれで考えものかもしれなくて。自己と向き合いすぎておかしくなる前に、とにかく手足を動かすのが吉。

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