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寝る前のメモ。


Facebookが、3年前と1年前の10月8日の出来事を教えてくれた。

決して大きなインパクトをつくりたいわけではないけれど、この数年間ずっと同じことを言い続けていることに、どこか落ち込んでいる自分がいて。結局、わたしは何もできていないのではないかと情けなくなるというか、無性に悔しくなるというか。負けず嫌いな性分なので仕方がないのだけどね。

「魅力とは地域に住む人がまずそれを強く認識することが大事。そうすれば、その良さが滲み出てより多くの人に魅力を理解していただける」

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自分が話したことは基本的にあんまり覚えていないのだけど、この場所で見たい風景、つくりたい風景はずっと変わらないのだなと改めて思う。稚拙な話をメモしてくれていた東くんに感謝。

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昨年の今頃は、「かめおか霧の芸術祭」のゲストアーティストのリサーチ過程をコーディネートしたり、

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このご時世で掲載は叶わなかったけれど、モスクワに拠点を置く日本文化を紹介するメディアに取材をしてもらったりしていた。

Facebookのおかげで、少しばかり積み重ねを感じることができるし、連絡をいただく相談の内容も年々変化してきたように思う。来週は、タイミングが合えばイタリアの方とも話す機会がある。今は、近い将来ここに来てもらうために粛々と準備を進めることしかできないもどかしさがあるけれど、地元で事業をするみなさんとお話をさせていただきながら、一歩ずつコマを進めていきたい。

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ランドルフ・T・へスター著『エコロジカル・デモクラシー』の訳者あとがきにある“風景をつくる人をつくる風景” “人をつくる風景をつくる人”という言葉を反芻しながら、グランドデザインの根幹はここに集約されるのではないかと思っていて。

言葉遊びのようなことかもしれないけれど、風景をつくる人って?人をつくる風景って?を考えていくうちに、自分たちが見たい風景のこととか、未来の子どもたちに見せたい風景のこととかをより一層考えるようになった。見えないものの価値をどう伝えていけるのか、説得材料としてのデータも測りたいし、定性的なエピソードも積み上げていきたい。

書こうか書かまいか悩んだ末に書きますが、自身の尺度やまなざしを持たないままに地方から都会へ出てしまうと、令和になった今でもテンプレート通りの価値観が育まれるのか・・・とちょっと呆れてしまう出来事があった。地方から都会に限らず、尺度やまなざしを持たないまま漂えば “どこへ行ったとしても” というのが正しいかもしれないけれど。

私だって完璧ではないし迷う日もあるけれど、そういう人と対峙した時にどこか冷たい目を向けていることは自分でもわかる。出てくる言葉も自然とキツくなる。他者のことなんて気にしなければいいのに、とその度に思うのだけど何がこんなにも引っかかっているのだろうか。

一方、何ひとつしがらみのない環境で、これまで知らなかった自分に出会えるという側面もあると思うし、新しいものや日々の変化から刺激を受ける環境ではあると思うのだけど、なんだろうな、それって本当にそこに行かなければ見つけられないものなの?と喉元まで来ていた質問をグッと堪えた。その環境を知らない私に、言える資格はない。


自分のまなざしを養う教育環境ができれば・・・と願っていてもはじまらないので、私が一番刺激を受けたであろう「雑貨屋」のような場所をまずはつくってみたいと思う。自分のなかでも、おもしろいくらいに毎日小さな矛盾がポコポコ湧いてきますが、返すべきボールを見極めながらだね。

さて、いよいよ始まるぞ。

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