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寝る前のメモ。


すこし時間ができたので(確定申告は明日やる)、いろいろと調べものをしているところですが、自分の役割のひとつと認識している「コミュニケーション・デザイン」という概念がなぜ必要かを考えてみたいと思ったのでメモ程度に。もともとはチームビルディングの必要性に駆られて、自然とそうなったことだと思うけれど。

コミュニケーション(情報伝達)は人の生活における立派なインフラである一方で、感情や知覚、思考といった属人的で主観的なアンコントローラブルなものでもある。地域においても、そういったコミュニケーションが日々交わされるなかで、どうやってものごとを着実に進めていくか、そのこと自体を自分自身の目的や役割を通して実験してみたい、と6年ほど前に思うことがあった。現場には、コミュニケーションの仕方をひとつ変えるだけで解決しそうなものごとがたくさんあったから。

突き詰めていくと「エスノメソドロジー」という領域に足を踏み入れそうなのだけど、そこまで私はアカデミックな環境にいないので、いまわかっていることはなんとなくこの辺りまで。

今日もたぶん別のことを書こうとしていたのだけれど、すっかり忘れてしまった。

最近、少しずつ地元が楽しくなってきたのは、地元を楽しもうとする人たちが増えてきたからだと思う。もちろん、おしゃれでスタイリッシュな場所が増えることで、視覚的にもアップデートされるし、それ自体はいいことだと思っているのだけれど、必ずしもおしゃれだからいいとは限らないので。

うまく言えるかわからないのだけれど、私はあまり表面的な情報や物事だけで惹かれることが少ないので、そういう流行を理解する力が乏しい(比例するように、自身がとっつきにくくなっていることも理解している)し、批判的な目を持っていることは紛れもない事実。

これが「流行だけをなぞって全然本質的じゃないではないか!」と先入観につながるともあるので、その辺りは自身としても考え直さないといけないところ。いろいろと取り組んできた一方で、凝り固まった数年間をほぐしたい気持ちもあって、そうなると本当に自分だけでどうにかすることは難しい。とりわけ、こうして毎晩自分自身と問答のようなことをしていると、最近はどうしても自分自身の存在意義についてを考えてしまう。

もちろん、この「存在意義」は喪失をしてしまっているようなネガティブな意味ではなくて、私の場合は自分の存在意義を見つけるために日々できることをやっているだけだということ。存在意義がわからないから、他者とのあいだにそれを期待して、ときには期待に沿わないこともあって、そろそろ期待もしなくなって、現在。


ただ、やっぱりどこかで「存在すること」の意義を見出したいんだろうね。少々まわりくどすぎて呆れてしまいますが、あきらめが悪いです。

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