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寝る前のメモ。


きょうは久しぶりにひとりの参加者として、日頃まったく縁のない場所へ。はじめましてでも、結局なんだかんだで亀岡の話はしてしまうんだけど、ほとんど匿名のままいられるのは東京だからなのかな。

海外も含めて定期的にこういう時間をつくるのは、自分自身のためなのだと思う。わかりやすく経験や実力を測る術をもたないので、普段いる場所から物理的に離れることで、視点や思考を深める。何に気がつくようになったか、どんな時間を必要としているか。

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「東京は〜」なんて、大きな主語で話すつもりはないけれど、数年前から訪れるたびに感じていた違和感は今回もあった。理由はわからないけれど、やっぱり会話のどこかに「競争」というものが常に存在している気がする。ひとりの子が楽しくやっていることに、大人が無意識のうちに他者との競争を持ちかけている。誰にとっても違和感がないのであれば、それはそれで余計なお世話なので、そういう前提の場所なんだと思う。だから自然と、それを望む人が集まる。

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外に出ることで気がつくのは、縄文時代から地続きにある風景はやっぱりおもしろいということ。博物館だからこそ知れるおもしろさはあるけれど、日々接している風景が連続していることの魅力は、一度失ってしまうと二度と戻ってこない。

竪穴住居のような茅葺き屋根を葺く職人さんがいること、囲炉裏で燻された竹を花入れに使う茶道家がいること、須恵器を復活させようとする陶芸家がいること。こういう方々が首都圏にいないわけではないはずだけど、そういう人たちの身近さは、割合で考えるとやっぱり多いのかもしれない。

あとは、東西で人の気質が変わることの理由は「土」にあるのではないかと思った。土が違えば水も違う。地形が変われば、採れる野菜の味も、釣れる魚の種類も違う。そういうことの繰り返しで、起こる会話とか、ハプニングの数も変わってくるのかなとちょっと思った。

その続きで考えていたこととして、24時間そのものは平等だったとしても、現代は時間の流れが違うから(そして決して質が高まったとは言えない)、「いい偶然」のようなものが起こる確率が下がってしまったのではないだろうか。いや、その確率は過去からずっと変わらないものなのか、みたいなことをこの数日は考えていて。情報伝達の手段が多様化して、同じ人生のうちで起こり得るハプニングの数が変わっていたとしたら、もう少し起こりやすくなるように変数を変えることができないだろうかとか。

そもそも測り方がわからないのだけれど、以前「心地よさ」を計測できないかと思った時に、やろうと思えばいろいろな方法が見つかった気がするので、「いい偶然」にももしかしたら測り方があるのかもしれない。

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