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寝る前のメモ。


長年のバスケットボール生活で鍛えられすぎて、どれだけ一日中働いたとしても、基本的にはごはんを食べ、お風呂に入り、寝ることをしていると疲れることはないのですが、そのなかでどうしても避けられない「気疲れ」というものが世の中には存在する。

自分のエネルギーのすべてを目の前に注いでいきたいので、それ以外はなるべく省エネで生きていたいし、角が立つやり方はあんまり好きじゃないけれど、時としてコミュニケーションをする相手は選べないことがある。

意図していたら厄介で、意図していなかったらさらに厄介なのだけど、相手を疲れさせるコミュニケーションの仕方は毒だと思っている。

どれだけ近しい人や関わりであっても、毒というものは割とあっさり見つかってしまう。一つひとつ気にしていると身体に良くないので、聞かなかったことにするときもあるけれど、テキストコミュニケーションだとそれが形になってしまうから厄介で。対面で話している時に比べて、肌身で得られる情報が少ない分、こちらも想像を働かせてしまう。

これは、世の中がオンラインでの生活を強いられた時にもすごく思った。画面を見ることが疲れるんじゃなくて、画面越しに見ている人たちの表情を読み取ることに限界があるんじゃないかと、その時すごく思ったんだよね。


話を戻すと、日々のコミュニケーションのなかに潜む「毒」の発生源が何かが気になっていて。その人の性格や生まれ育った環境、あるいは現在のステータスが大いに関係しているのだとは思うけれど、すべてを突き詰めると、それは「自己受容」なんじゃないだろうか。

自分自身の存在を自分で認めることってやっぱり難しいのだけれど、嫌なところも含めて全部が自分だから。それができないと、客観的に自分を見ることはできず、自分に都合のいいことしか見えなくなってしまう。

もちろん例外もあると思うけれど、相手の言動が気に入らないときは、たいてい自分の振る舞いに原因があるのだと考える。もし、何度も振り返りをして自分が倫理的にも論理的にも間違っていないとしたら、その時だけはどうしようもないので、その対象と距離を置くのが最終手段になるよね。


毒は癌と一緒で、小さいうちに対処できていればなんてことはないのだけれど、時間が経ち、大きくなっていくとどうしようもできない。時に、自ら出してしまった毒にずっと縛られているような人もいる。

どんなことであれ、そこに当人の意思があれば解決できない課題はないと思っているのだけれど、なんかこんなにも難しいことだったっけ、とひさびさに考える時間が多いです。

家族も友人も仕事も、自分から吐き出される毒の量が多くなってきたら、やっぱり距離をおいた方がいいと思うな。


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