見出し画像

平手打ちと佐々木朗希 運動神経が悪いということVol.17

『コーダ あいのうた』の作品賞も『ドライブ・マイ・カー』の国際長編映画賞も、残念ながら霞んでしまった。もう旧聞に属する話題だが、今年のアカデミー賞、最大のハイライトになったのは平手打ち騒動だった。懲戒処分が下されたウィル・スミスの振る舞いについて、日本では同情的な意見も少なくなかったのに対し、現地アメリカでは非難の声が圧倒的だったようだ。いかなる理由があるにせよ、暴力は絶対悪と見なす意識が浸透しているためだという。

遠分の間、スミスは『ドリームプラン』の主演男優賞受賞者ではなく、ビンタの人として記憶されることになるだろう。直前には笑みを浮かべていたのに、隣で機嫌を損ねた妻に感化されたか、烈火の如く手を上げてしまったのが悔やまれる。後に受賞スピーチの時間が用意されていたのだから、言論をもってクールに反撃すれば良かったものを。しかしながら、暴力を忌み嫌う風潮は良いとして、悪趣味なジョークでビンタを誘発したクリス・ロックにはお咎め無しという裁定は、どうにも解せない。笑いの構造や力関係に基づく意識など、識者からはアメリカ特有のカルチャーが解説されていたが、どれも腑に落ちなかった。身体的な暴力、「それさえ気をつければ良い」のだとしたら、これからも言葉の暴力は後を絶たないのではないか。

わが国のプロ野球で、序盤にして歴史的な活躍を見せているのが佐々木朗希だ。前回の槙原寛己から、実に28年ぶり。野茂英雄や松坂大輔、ダルビッシュ有や田中将大も成し得なかった完全試合を達成してみせた。13者連続奪三振は日本新記録、1試合19奪三振は日本タイ記録で、ヒット性の当たりさえ許さなかったという。岩手という土地には、何か特別な鉱脈でもあるのだろうか。大谷翔平が全盛を謳歌するのと同じ時代に、次なる怪物まで輩出するとは。いかに競技人口の減少が危惧されようとも、一挙手一投足に注目が集まる「時の人」の系譜は途絶えないのだから、野球界の豊かな土壌も羨ましい。

非の打ち所がない完全試合の快挙もさることながら、私が佐々木の底知れぬ力を思い知ったのは、むしろ次の登板だった。30年近く、誰一人として超えられなった壁を突破。直後は燃え尽き症候群に陥っても無理からぬところ、8回までパーフェクトピッチング。2試合連続の完全試合に迫ったのだ。伝説的な快投を見せながら、味方打線の援護に恵まれず、ベンチが下した決断は8回限りでの降板だった。巷では、疲労を考慮したことを評価する好意的な意見が優勢のようだ。近年になって、個人の安全に配慮する意識が高まってきたことは喜ばしい。一方で、スポーツにおける記録と、それが人の心に刻む記憶の価値が下がってしまったような、手放しでは評価し難い印象を抱く。私がもっと野球好きで、なおかつロッテのファンであったなら、前人未到の偉業の可能性が潰えた降板を、安全配慮による英断だったと冷静に受け止められたかどうか。より安全を配慮されるべきは、一般社会を生きる私たちのようなごく普通の人であって、佐々木のような傑出した才人には、記録に挑む権利も最大限に尊重してあげてほしい。安全配慮が大切なことはもちろんだが、「それさえ気をつければ良い」という考えに傾けば、幻に終わる夢もあるはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?