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内腿の筋肉痛が遠くなっていくのを惜しみ、撫でながら。「もういちど」とベッドの中でくっついたあの時、男の太腿の意外と冷えていた感触を、かろうじて取り出す。

初めて会ったのは、春の予感も感じない冷たい雨の日、六本木。

指定の出口に、コートの裾を濡らしてあのひとは立っていた。

今ほどに加虐的だったかどうかは覚えていないけれど、彼と初めてセックスをした日、自分に染み付いたフェロモンの圧倒的な安さを思い知らされ、震えて帰宅したことははっきりと覚えている。

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その頃のわたしは、腐れ縁の学生時代の元彼と、友人の結婚式で15年ぶりに再会して以来のありがちな不貞/婚外恋愛を、日常の些末なため息のやり場としていた。

回を重ねるうち、私が乗っかるばかりになっていくセックスは、そんなにいいものではなかった。それでも彼とのメッセージの濃度は行きつ戻りつ、徐々に薄まっていくのを、どうにかしようとすることもなく眺めていた頃。

ここではないどこかへ、とは16歳位の頃からよく言ったもの、「結局さ、他の誰かなら誰でもいいんじゃん」と、ありふれたマッチングアプリに手を出した。自分と同じ既婚者で、最高峰の学歴に近いほど良くて、喋りすぎなさそうで、多少の文化的な話題には頷いてくれそうな男をひっかけては、飲みに出かけたお店では前述の元彼のハナシを酒の肴にする。そのあと、ということは、こうなっちゃうよねとばかりにホテルに行き、やることやったらLINEを交換して、素知らぬ顔して帰宅する。ということは一度ではなかった。

フィルタリングを完璧に満たすスペックであったことも勿論。初めての時から、違うものを感じたなんていい年して腐った乙女心が過ぎるが、2回目の約束をしたくてわたしから連絡をしたのは、あのひとが初めてだった。

仕事周辺の話、夫婦間の話、子供の話、連休のすごしかた、部屋にモノが多いか少ないか。 フリーの私と自営の彼の間に、共通の話題はほどほどに多い。

三度セックスした男という生き物は、僕の話を僕の理論で、僕のテンポで語り出す、という説をわたしは心密かに提唱していた。くっつく前の顏かたちや年齢に関わらず、皆。おんなが濡れているかどうか等感知せず、突如夢中な瞳で始まる、滑稽な「現実の僕」の噴出。こちとら現実の隙間をくぐって不貞をはたらく身分、それも含めて愛せるほどの空き領域は、哀しいけど(近年は殊更)残っていない。

アートなどわからないわたしに、仕事柄さぞやそんな話を沢山聞かせるのだろうと予想したのに、三回四回とセックスした後もあのひとは全く語らない。なのに会話は淀みなく流れて、私が尋ねているのに、気付いたらいつも私が話していて、その口は的確な機会にやわらかく塞がれて甘い息に変わる、あのやり方はなんだろう。

選ぶ話題にタブーはないのだけれど、全方位にきちんと円を描くように、立ち入り境界線が張られているあのひとの話しぶり。感情を排し、事象だけを見つめて組み立てる、あのひとの物の見方、無駄のない言葉選びは、あのひとが一度だけ見せてくれた自身の仕事のパース絵と同じで、無機で隙がなく、只々わたしを惹きつける。そのような会話をするので、セックスとセックスの間にもわたしは乾く暇がなかった。

他の人とも同時進行で会っていたし、わたしのことをこいびとだと扱う人もいる。でも、あのひとと会う日を何度経験しても、行きの大江戸線ではいつも胸が甘くて空気が薄い。

しょっちゅう、とは呼べないほどの頻度で会い、

密会、とも呼べるほどのお忍びでもなく。

なんでもない顔でいつもの場所に待ち合わせ、罪のない会話をしながらホテルまでの坂道を下り、数時間後にはホテルを出て坂道を上り、首都高の下を歩いて、改札まで隣を歩く。

でもそのホテルの中で二人がすることは、時とともに徐々に加虐/被虐性を増していった。
初めて会った日「好奇心が全てのモチベーションだ」と言ったあのひとがある日「もっとひどくしてあげるよ」と、顔に似合わない、平仮名だらけのメッセージを送ってきて以来。

熱を抑えた瞳の温度。育ちの良さを感じるなめらかな肌と、日々の労働ではなくものづくりの機動力を感じる、控えめに筋ばった腕。

あのひとにインプットされている、わたしのすきなこと。

ピアスごと耳をいたぶってから、首筋へキスを落とされること。服を着たままソファーで体勢を乱されること。あのひとの目を見ながら、自分でゆっくり服を脱ぐようにと指示をされること。慈しみからほど遠いやり方での、乳首への刺激。わたしの髪を撫でること。そのあと髪を掴んで喉の奥を何度も犯すことと、少々の悲鳴ではその手を絶対に緩めないこと。いつも予想より早いタイミングで、何も言わずに挿入すること。濡れすぎているわたしを辱める悪い言葉。「あんまりいい顔するから」と言ってはひどい格好をさせ、一度目はそのまま、二度目の最後はわたしの中から出ていき、私に自慰をさせ、それを見ながら自分も達すること。

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夏の間、生活と仕事に忙しく、予定を立ててはキャンセルになる事が続いて、数か月ぶりに会えた秋の始まり。いつもの場所であのひとはやっぱり先に立っている。初めて会った時と同じコートの裾は今日は濡れていなくて、カーキ色のコートだと思っていたのは、本当は綺麗に隠れた玉虫色だったことを、晴れた空の下で知る。

加虐心に火が付くとき、体温の上昇とともにあのひとは目の温度を失う。直接でも、鏡越しでもその冷たい目でわたしの全身を刺して、喉の奥をなんどもなんども犯し、髪を荒らし、四肢を拘束しながら声を漏らさせては「ひどいね」と笑う。「あなたが。わたしが。」「君が。  僕も」


事後は体感である程度の時間が判るけれど、ちょっと気になる程には話し込んでしまった。あのひとは、サイドボードの時計をちらと見て「種を絶やさないため、のはずだけど」と苦く笑って、再び肌を近寄らす。背中を撫でていたあのひとの指は、いつの間にかわたしの狭いエリアを捕らえていて、そうしながらまたわたしの目を見る。ふたつの体がどちらの領域かわからなくなるくらいさっきまで湿って溶けていたのに、すっかり冷えてしまって可哀そうな、あのひとのしっとりした太腿と上腕。先端は熱くて新しいぬるみを蓄えているのに。

口実はなんでもよかった。一度だけ甘いセックスをしたかった。

「ねえ今度はさ、やさしく挿れてみてよ」

あなたが、余所のセックスフレンドにするように。結婚相手とするように。

何かを少しだけ飲み込んだ顔で、あのひとの影を追って体が被さる。

へえ、こうやってするんだね。奥の方をこすりながら、額を合わせて。両掌が頬に触れて。なぜか泣き出しそうな顔で。

「嫌でしょ?」

「好き」

頭を包み込むあのひとの腕が、わたしの頭蓋骨と脳味噌を丸ごと抱く。

頭の裏側、脳髄の奥が感電する。

わたしはあなたと同化してしまいたいの。

好感をもって評価するひとが使う「共感性」というわたしの一面は、あなたのような次元の人間と対峙するとき、もう取り込まれてしまいたい という思い以外に、その回路の出口を見つけられない。


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乗り慣れない地下鉄を降り、長い長いエスカレータを上って、いつもと変わらない新宿の匂いを確かめるように嗅ぐ。そこから続く帰り道はいつも、ひどく眠たい。

オレンジ色の電車で一眠りして、目が覚めると現実がわたしを待っている。ミッドタウンも首都高も見えないいつもの暮らし。あしたのことを考えながら、その晩も眠る。記憶はどんどん遠くなる。「まだ、いかないで」と言えないまま、こんなにもおとなになってしまった。



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