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薫る水

「お忘れ物ございませんか」ガソリンスタンドを併設したレンタカー店に到着して、助手席を降りる。「わすれもの、ないかな」とあえて声にする私に目をやり、好きな男が前を歩く。何でもない顔をして返却手続きを済ませ「どうも、ご親切に」とスタッフに声をかけ、二人で目を合わせてレンタカー店を後にし、細い歩道の隣を歩く。

数日ぶりに見る男の横顔。この人の隣にいると空気がまるい。目が合うととろけるように笑うその表情を見て、わたしのほうがとろけてしまう。車の多い通りを抜けて角を曲がり、Googlemapを見て気になっていたカフェでコーヒーをテイクアウトして、住宅街のほうへと歩く。豊かな香り。日曜の夕方5時、普段なら心細く追い立てられるような時間なのに、どこかゆっくりとするすると流れ出す。

このレンタカーを借りた二日前。わたしはこの車に一緒に乗っていた。金曜の東京は積雪の予報を裏切らず、しっかりと大きな雪が降っていた。男は家族旅行でスキーに行く予定で、車を借りるためレンタカー店まで歩く道すがら、わたしを散歩に誘ってくれた。真っ白になった世界をはしゃぎながら歩くと、徒歩20分だってあっという間に着いてしまう。

店に入り、カウンターで手続きを進める男の背中を眺めながら、わたしは自販機に対峙してたじろぐ。朝カフェインを取らないとすっきりと目覚めない男のことを思うといち早くコーヒーを流し込んであげたい、でも私が缶コーヒーを買うの?これから奥さんが隣に座る席に置かれる缶を?

男が行き先を山梨方面だと伝えると、お店のスタッフさんからは大注意を食らい、私はくくくと笑った。「こんな雪の日に!ご同行の方も運転はなさいますか」「いえ、私は」何気なく手続きを済ませて、さも一緒に山梨方面に向かう同行者の顔をして助手席に乗り込み、スタッフの見送りを笑顔で受け取る。ほんの10分程度わたしの家まで送ってもらい、大通りの脇に停車した車中で3回キスをして「いってらっしゃい」と男を送り出した。

それから2日後、無事に帰宅してくれたのは幸いだった。前日の大雪と翌日の気温上昇で雪崩のニュースがTVを賑やかしていたから。こんなときはいつも「もう終わりかな」って真剣に思っている。

土曜と日曜の夕方はいつも外出を控えている。平然と夕食の買い物に連れ立つ男女の姿を、どうしても目で追ってしまうから。彼はわたしを寂しくさせるような行動を一切しないけれど、それでもこの時間はお互いに家庭の中で動く時間帯だから、一緒に過ごすことはほとんどなかった。それが今日は、偶然だけど叶う。

初めて買ったコーヒーは予想を超えて美味しくて、素敵な建て方の美しいお店だった。このあたりは住宅を眺めながら軽口を叩きつつ歩くだけで楽しい。なんだってこんなバカでかい家を建てるのかっていうような住宅が立ち並び、蔵がある家が連立していたり、かといって都営住宅のベランダには中国語の表記がある謎に大きいパラボラアンテナがついていたり伸び放題の巨大なアロエがあったり、そういうひとつひとつに触れながらわたしは男の顔を見て、男はわたしの顔を見る。顔を見て、手のひらや腕に触れて、隣で声を聴く。外の風を感じる。この時間が本当に大切。2月とは思えない春の風。

夕方6時前、生活がひしめく住宅街。わたしたちは人気のない深夜に散歩することが多いから、普段は聞こえない音がたくさん聞こえる。ドアを開ける音。犬の鳴き声、子供の話し声。音が消えて気配が無くなる、その隙間をぬってキスをする。「ねえ、深呼吸してみて」と男が言う。春の気配と合わさって夕食のスープ、お風呂の香り、いつもより水気を感じるかおりがする。生活のかおり。

二日前の雪を歩いた日も、同じ香りがした。生活は水を帯びているんだと。こうやって、一緒に生活を進めていきたいのにね。もっとずっとそばにいたいのにね。乾いた手と手ををつないで。どうして、こんなにあなたを好きになってしまったんだろうね。


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