【ファッションで時代を切り開いた人物たち⑤】クリストバル・バレンシアガ
飯田亜美です。
私はブランドを立ち上げたデザイナーの背景や歴史を
知るのがすごく好きです。
世界に影響を与えているブランドやデザイナーの歴史を知ることで、
ファッション業界の考察とこれからの展開に活かすために
綴っております。
そんな今日ご紹介する人物は
バレンシアガ創業者のクリストバル・バレンシアガです。
クリストバル・バレンシアガの一生
針子であった母親から婦人服の仕立てを学び、12歳の時に洋裁師の見習いとして働き始めたのが彼のキャリアのスタートです。
そして当時の顧客の援助を得て、独立するに至りました。
スーツをリメイクした服から才能が認められ、そのデザインはパリで高い評価を受けるように。
1933年にはマドリード、1935年にはバルセロナに次々と新店舗をオープンし、王室も顧客となるほど、スペインのファッション界をリードする存在へ。
しかし、スペインの内戦の影響でパリへ渡ることになり、パリのジョルジュ・サンク通りに店を構えることに。ここで初のパリコレクションを開く。
このコレクションがパリのバイヤーから一気に注目を浴び、大きな話題を呼ぶことになったのです。
バレンシアガが発表したデザインは、ウエストラインのない「バレル・ルック」、シンプリシティを追求した「サック・ドレス」など、体型を気にせずに着られる、ゆったりとした服でした。
当時は、コルセットで腰回りを固め、お手伝いさんを雇わないと着ることができないほど、ぴったりとして体のラインがはっきりわかるような服が美しいと言われていた時代。大きな革新を呼び起こしました。
また、クリストバル・バレンシアガは完璧主義者でもあり、1日に120回の仮縫いをこなして、服だけに留まらず小物まで自分の手で仕立てるほどでした。
そんな彼は、ある時アメリカの最先端の技術を見学するためプレタポルテの工場に足を運びましたが、機械では自分の納得できるものは作れないと確信したそうです。
機械化を断念したため、ビジネスの拡大という点では後手を踏んでいました。それでも超一流の服を作り続け、他のブランドと並ぶほどの売り上げをあげていたとのこと。
1968年、クリストルバレンシアガ73歳の年に、民衆が起こした反体制運動の影響などを受け、パリとバルセロナの店舗を閉鎖。「贅沢は不可能になった」とデザイナーを引退し、77歳にて亡くなりました。
バレンシアガという人物像
「私の服を着るのに完璧も、美しさも必要ない。私の服が着る人を完璧にし、美しくする。」
「クチュール界の建築家」との異名を持ったバレンシアガは、1日に120回の仮縫いをこなし、コレクションの隅々までチェックし、服だけでなく帽子のような小物まで自分の手で仕立てるほど。
そして、妥協を許さない性格であり、自分の納得がいくまで何度でもパターンを作り直し、縫い目が完全に隠れるまで作りなおすといった完璧主義者でもあったのです。
ココ・シャネルは「バレンシアガだけが本物のクチュリエだ」と讃えているし、マドレーヌ・ヴィオネとも親交が深かったそうです。
クリスチャン・ディオールは、「われわれ全員の師」と呼び、バレンシアガが一度デザイン活動を辞めようとした時には直々に辞めないで欲しいと懇願したほどです。
ユベール・ド・ジパンシーは親友でもあり、「奇跡のバレンシアガ」と彼の類まれなる才能に賛辞を贈り、クレージュ、エマニュエル・ウンガロといった弟子たちはバレンシアガへの尊敬の念を忘れません。
バレンシアガの閉鎖
クリストバル・バレンシアガが74歳で引退し、77歳で死去したことで、全ての店舗をバレンシアガ閉鎖することになりました。このバレンシアガの閉鎖は、ファッション業界で大きなインパクトのあるものでした。
その後バレンシアガは、クリストバル・バレンシアガの甥であった人物に所有されることに。1986年までは、香水のみのブランドとして存続し、1987年にプレタポルテが復活しました。
そして1992年からはジョセフュス・メルキオール・ティミスターがデザイナーとなりますが、評価は下がり、バレンシアガの栄光は凋落していきます。
バレンシアガを救った人物たち
バレンシアガのその後ですが、ブランドの危機を救ったのが若きデザイナーのニコラ・ジェスキエールでした。
南フランスのプロヴァンスで生まれた彼は、学生時代からアニエスベーなどで働き、卒業と共にジャンポール・ゴルチエの元に就き、様々な場所でトップデザイナーを務めています。現在はマーク・ジェイコブスの後任として、ルイ・ヴィトンのアーティスティック・ディレクターを務めるほどの人物。そんな彼は、1998年春夏のデビューコレクションにて、新生バレンシアガを人々に強烈に印象付けます。
2000年には「アバンギャルド・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」、
2001年には「インター・ナショナル・デザイン・アワード」「ウーマンズ・ウェア・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、見事バレンシアガのブランドを復活させました
その才能とブランド価値に目を付けたグッチのブランドが、バレンシアガを2001年に買収。事業拡大を目指し世界の主な首都に旗艦店を出していきます。そして2001年にはバッグと靴、2002年にはメンズラインにまで展開を広げていきました。
2009年には、ニコラ・ジェスキエールによる初のフレグランスである「バレンシアガ・パリ」を発表し、2011年にバレンシアガ パリ レッソンス」、2013年に「フローラボタニカ」と展開しています。
バレンシアガの復興を遂げたニコラ・ジェスキエールはその後2013年にバレンシアガのデザイナーを辞任。
2016年には、デムナ・ヴァザリアがアーティスティック・ディレクターとなり、初シーズンとなる秋冬コレクションにおいて、建築的要素を取り入れた、芸術性の高い作品を発表。1世紀に及ぶバレンシアガの歴史を、再解釈し、さらにモダンな要素を取り入れたコレクションが注目されており、これからのバレンシアガに期待する声が高まっています。
まとめ
ファッションのデザイナーはまさに建築家というか、アートというか、職人というか、そういう気質がある方が多いのですが、
クリストバル・バレンシアガもまさにその極みだったんだなと。
周囲を感嘆させるぐらいの仕事への集中ぶりと完璧主義。孤高のデザイナーだったとのことですが、その作り出すコレクションで多くの人々を魅了したのですね。
現在のバレンシアガはVETEMENTS(ヴェトモン)の創立者であるデムナ・ヴァザリアが更に次の時代へのブランドと進化させているのですね。
誰かの名前のブランドが後世によって再解釈、再構築されていく。
遠くでの出来事のようで、服が目の前にあるという、このリアルが私が服が好きな理由の一つです。
本日は以上です。
ありがとうございました。
株式会社LIFE DESIGN 飯田亜美
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