ぶどう酒に秘められた奥義
物語が壮大であればあるほど、細部がしっかりと描かれていればいるほど、矛盾のない世界を作り上げるのは難しいことだろう。
世界のシナリオライターはこう言う。
"私はアルファであり,オメガである。今おり,かつており,これから来る者,全能者である"黙示録
時には介入し、時には静観し、すべてはそのご意志のままに
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西暦前1513年、追ってきたファラオの軍隊が紅海に沈んだ後、イスラエル国民はシナイ山に導かれそこで掟が与えられた。
いかなる偶像も作ってはならない。
民はモーセが不在であった間に早くもその過ちをおかした。金の子牛を作り崇拝しはじめた。
"モーセは彼らが作った子牛を取って火で焼き,粉々に砕いた。そして水面にまき散らし,それをイスラエル人に飲ませた。 "出エジプト記
どんな味がしたのだろう。焼け焦げた苦くてまずいものを飲むことになったことであろう。
"その者も神の怒りのぶどう酒を飲むことになります。神の憤りの杯に薄めずに注がれたぶどう酒を飲むのです。"黙示録
西暦96年頃ヨハネは黙示録を記した。その幻の光景はヨハネの思いに刻み込まれたことだろう。赤い液体であるぶどう酒、それは血を象徴することもあった。良いものを撒けば良いものを刈り取り悪いものを撒けば悪いものを刈り取る。流血の罪を犯した者たちがぶどう酒を飲まされること、つまり報いを身に受けることが記された。それからヨハネはキリストと出会った若かりし頃を思い出しながら最後の福音書を書くことになる。
"普通は最初に上等のぶどう酒を出し,みんなが酔った頃に劣ったのを出しますが,あなたは上等のぶどう酒を今まで取っておいたのですね"ヨハネによる福音書
キリスト・イエスの最初の奇跡は婚宴でのことだった。婚宴で振る舞われるぶどう酒が不足したためにイエスは水をぶどう酒に変えるという奇跡を行った。酔いが回った頃に劣ったぶどう酒を出すことが一般的であったが後から振る舞われたこのぶどう酒の方が非常に質がいいのはなぜかと人々は不思議がった。それは皆に行き渡るには十二分な量であった。
イスラエルは国家として神の定めた法律に繰り返し背いてきた。神は正しい道へと人々を立ち返らせるために繰り返し預言者を遣わしてきたが、彼らは預言者を殺害しその血を流してきた。そして、神はご自分のみ子イエスを遣わすことにされた。質の高いぶどう酒が象徴するようにイエスが流す完全な人間としての貴重な血は人類の罪を贖うために後から流されることになっていた。
最初の奇跡が最上のぶどう酒であったのに対しイエスが最期に飲んだぶどう酒は最低のものだった。
イエスは杭にかけられてからも成就すべき預言をすべてなしとげてゆかれた。その杭の上で成就した最後の預言は詩編69編21節にある。
"わたしの渇きのために酢を飲ませようとしました。"
水分を含む繊維質のものにぶどう酒を染み込ませたものがイエスの口元に持っていかれ、イエスは杭の上でそのぶどう酒を飲まされた。
イエスは質の悪い酸っぱいぶどう酒を飲まされた。杭に磔にされるということは人類の罪の呪いを引き受けることの象徴であった。まいたものを刈り取るということは、それを食べたり飲んだりすることを意味する。人類が流してきたおびただしい流血の罪。質の悪い酸っぱいぶどう酒を飲まされたことは全く罪のないイエスがとことん罪の呪いを引き受けておられたことを連想させる。
そして、イエスの血もまた流された。杭の上の死体に槍が突き刺されて。
"イエスは言った。「はっきり言っておきますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,自分の内に命を持てません。私の肉を食べ,私の血を飲む人は永遠の命を受け,私はその人を終わりの日に復活させます。私の肉は真の食物,私の血は真の飲み物です。私の肉を食べ,私の血を飲む人は,ずっと私と結び付いており,私もその人と結び付いています。"ヨハネ6:53-56
象徴的な意味で語られているこれらの言葉。それはキリストが人々の罪を贖うために血を流し死なれたことを認め受け入れることを意味している。
アダムに起因する原罪が取り除かれる時が来ようとしている。
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