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【社会人歴5年半の転機】支えてもらえるのは「当たり前」ではなく「ありがとう」。

はじめに

おはようございます。2月中旬ごろから続いてきた北海道の寒さも少しずつ解け、暖かくなってくるこの頃。昼間の時間も長くなり、少しづつ活力がみなぎってきた。
今回は、旭川市で17年3か月、比布町には現在も6年暮らしている僕に訪れた転機について書いていく。

何でも自分でやろうとした高校時代

発達障害に筋力低下の難病持ちもあるせいか、これまで実質過保護の状態で育ってきた僕にとって、願いは何でも叶って当たり前だと思って生きてきた。もちろん高校生活最後に祖父母の家に住み始めるまでは我慢することさえ知らなかった。
ただ一つだけ自分の中にあった譲れないもの。それが「何でも自分でやってみたい」という思い。
その願いもあり、小学校高学年の頃に一人で札幌に出かけ、母親が作った絵本を渡してきた。
それをきっかけに中学生で北海道日本ハムファイターズのホームゲームを観戦。旭岳の登山も果たした。大御所俳優・伊吹吾郎さんにもお会いしている。

時代劇「水戸黄門」シリーズやスーパー戦隊シリーズ33作目「侍戦隊シンケンジャー」にも出演していた大御所俳優・伊吹吾郎さんとの記念写真。当時ですでに70近かったけど、かっこよかったな。
10年前に果たした旭岳の登山。この頃すでに病気の進行は始まっていた。

高校時代にはバス通学を果たし、入学して半年後にはピアノレッスンもバスで通うようになった。が、

現実と向き合わず逃げ続けた高校時代

実は反省点もある。見出しに書いてあるのは、中学校生活の中盤でポンぺ病による筋力低下が再度始まり、階段の上り下りが辛くなってきた頃だった。
これまで一段抜かしで駆け上がっていた僕が、10年以上前から手すり必須になり、今もそれが続いている。
それもあってか今ではエレベーターを使うことが多く、ステージに上がる際もスタッフに支えてもらっている。
高校生活も後半に入るとデイサービスによる通学の移動支援が始まった。転倒防止のためだ。今思えばもっと早く始めても良かったのではないか。
それなのに僕は病気のことを何もわかっていなかった。筋力が弱っている現実と向き合おうともしなかった。
2016年の3月頃に水中歩行を始めていれば…、もっと早く学校の先生に体の不調を訴えることができていたら…。
こんなこと考えていてももう遅い。後戻りできないのだ。

路線バスこだわりの強い僕にとって通学の移動支援は苦痛でしかなかった

移動支援が認められると普段の買い物にも行けるようになる。今思えばそれだけでも助かっている。

そして何より、僕にとって当時苦痛だったのが「デイサービスによる移動支援」。なぜなら、あの時路線バスに乗って出かけるルーティーンがないと気が済まなかったからだ。その話が出たのは2016年の11月頃。
当時一緒に暮らしていた母親から聞かされたのが始まりだった。もしかしたら先生に言われたのかもしれない。確かに通学時は、赤信号で渡ってしまう確率も3割以上と高かったしな(横断歩道を渡りきれなくて)。
だが、それすらも分かっていなかった。自分の身の安全よりも「バスで出かけて当たった運転手の名前を確認する」「バスの運転手がどのタイミングで動いて、どのタイミングで前扉が開くのか」を大事にしていたのだ。

特に顕著なこだわりとして出ていたのがいわゆる「ノンステップバス」。冬はこれがあるから大丈夫だろう、と思い込んでいたくらい。開けるタイミングもなかなか面白かった。

ていうか、むしろ「完全に止まる前にドアが開く」ところを見るのが独特で面白かったし。バス停までの送りで降ろしてもらう時もその方が早いと思い込んでいたくらい。
それはもう「バス好き」を通り越して「路線バスこだわり」になっていたのかも。
土日になると頻繁に出かけていたのもそれがあってのことかもしれない。

今の自分にとって必要不可欠なのがピアノのレッスンに通うこと。オンラインも良いけれど、やっぱり事業所の移動支援を使ってでも通った方が気持ちいい。

ピアノレッスンはどうかわからないけど、散髪するときくらい移動支援使えよ。町に行く暇があったら近所のウォーキングや水中歩行に行け。

「自分でやった方が早い病」は施設入所後も続いた

高校卒業後、両親が道外にいたこともあり社会人第1号として現在の施設に入所した僕。当時の職員はほぼ全員退職し、1人は役場にいるが、職員や先輩利用者にはとても助けられていた。
しかし、「自分でやった方が早い病」は去年の秋まで続いた。
その根本的な原因の1つでもある支援員2人の特徴を紹介する。

未だにインパクトの強い某施設の元支援員2人

苦手なことは手伝ってもらった方が早く終わるはずなのに、自分ですべて終わらせようとしてしまった。一番大きな原因が「激しい思い込み」。

「自分でやった方が早い病」は元々僕の勝手な思い込みによるもので、誰のせいでもない。だが、今から紹介する元支援員2人は、人間として、してはいけないことも実際にしている。
まず1人目は、当時最年長で現在は70近くなっている爺さんについて。
彼は豊富な人生経験を持っているせいか、仕事が早い故に全体を見て動ける職員だった。そのため、倉庫で行うペットボトルのキャップ外しやアルミ缶つぶしなど、リサイクル作業全般において助けられていた。
昨年3月までホタテ貝の仕分け作業に行けたのも彼のおかげ。前提実習の時から概ね5年にわたり本当にありがとうございました。
だが、してほしくないこともいくつか挙げる。
1つは某施設に入って2年目を迎えた2019年末の出来事。2017年3月に親元を離れて以来、年末年始は毎年帰省していたが、この年、初めて自宅に残って年を越している。
この日、たまたま彼が夜勤で日中にいつも通りカバンを持って出勤してきた。問題はその後。

1Fデイルームのテレビ付近に座り、缶ビールを8本飲んでいたのだ。それで起きれるならまだしも、夕食後に2Fに上がり、酔っぱらって寝てしまった。
これには腸が煮えかえり、祖母にEメールで告げ口してしまった(当時はガラケー。後に母にも告げ口。)。

告げ口は人間関係を崩す手段の1つ。思っても言って良い事悪い事がある。

翌2020年の正月にようやく起き上がり、普通にご挨拶。無事だったからまだ良かった。しかし、自分より病気が重く、呼吸器を付けている利用者の気持ちを考えると、とても耐えられない。辛くて今にも涙が出そう。
飲酒をするなら自宅や忘年会などの行事で飲んでほしい。夜勤中の飲酒などしてはならない。
他にも生活道路でのバックなど殺人規模での前科はいくつかあるが、それ以上に助けられたことの方が多い。
それもあり、2022年の暮れ、旅行中に倒れたときはかなりショックだった。
ワクチンを打った後にお酒を飲む方も悪いが、もっと彼の事情を前もって知り、止めてあげられなかった自分も自分。反省しなければならないのはお互い様だ。
あれから彼はそのまま退職、自分は職員の人生を壊してしまった罪を償うため、今年度からペットボトルのキャップ外し等リサイクル業に戻った。

「気づいてあげられなくて、ごめんなさい。僕が代わりに働くのでゆっくりお休みください。お疲れさまでした。」

2人目に紹介するのは、最初の頃、生活管理の面で担当だった太った男性職員について。
彼には生活面の自立でよく助けていただいた。例えば、お小遣い帳の記入。施設に入るまでは月々もらっていたお小遣いをギリギリまで使うほどの浪費家だった。先にも書いたとおり、不必要なお出かけによるバス代でお金飛んでるからね。
施設で作業するようになると必ず工賃が入ってくる。お金の管理ができないままだと生活が困難になる。

そんな自分のためにお小遣い帳の記入を提案してくれたのが当時30代前半だった彼。おかげで今の生活が成り立っているといっても良いくらい。退職した現在も続けています。
そして、自宅から祖父母の家に向かう夕送迎やその逆、通院等介助や移動支援でもとてもお世話になった。

入所1年目の2018年から2020年8月までお世話になった祖父母の家までの送迎。
点滴治療の前日には送ってもらい、治療の次の日には迎えに来てもらった。
今までありがとうございました。

自分でやりたかったあの頃は「取り上げられた」と思い込み、それが嫌だったけど、今思えばとても嬉しかった。それは、病気によりお手伝いが必要な立場であることをようやく自覚し始めているから。
2週間に1度送迎による乗り降りの際に運転席から降りて祖母にご挨拶していただいたり、扇風機を買ったときには品ごと運んでいただいたり。

しかし、顔を叩きながら居眠り運転するのは止めてほしかった。自分だけならまだしも、移動支援で他の人も乗せているというのだから。一歩間違って事故ったら死んでしまうからね。
先輩の話で発覚し、そのことも祖母と母に告げ口。人間関係を悪くしてしまうから本当は良くないのだが。
2019年の終わりに退職し、札幌に戻ってしまったためとても寂しいのだが、最後に年賀状からのメッセージありがとうございます。違う場所でも元気にしていますか?
「自分でやった方が早い病」の原因は信用できない職員がいたことによるトラウマもあったかもしれない。

それぞれ良い面と悪い面はあるものの、70近い爺さんも、太った男性も、筋力の弱い僕にとって体力面でのハードルを下げてくれる素敵な職員だった。
そして、2人の退職後にコンサート会場でお会いしたGlobal Style Loungeの主宰・Narumiさんも心理的なハードルを下げてくれる素敵な存在。

ディスカッションをきっかけに僕も変われた

最初の頃からいた職員が180cm近くある茶髪の男性を含め3人とも退職し、新時代に突入した2023年。5月には2年半ぶり自分で点滴治療に通うようになった。その矢先のこと。
10年以上続いてきた「自分でやった方が早い病」に終止符を打つ日が来たのだ。
それは同年11月頃のこと。現主任のお兄さんと相談機関の女性を交えて3者面談に参加。その時に現主任から言われた言葉が以下の通り。

「自分1人で動くのも良いけれど、お手伝いを頼んで協力し合えるようになるともっと良いかな」

この言葉を聞いて完全に気持ちが解れた。というのも、祖母の誕生日の前日でもある11月7日に自分と同じ難病を持ち、実際に車いすに乗っている人がゲストとして出ていたパネルディスカッションでも似たようなことを言っているからだ。
この方は車いすに乗っているが故に「段差があって入れない」という壁があって当時困っていたそうです。
ただ、その人の経験談から伝え方を変えることで動いてもらえることが多いみたい。その「伝え方を変える」とは何かわかるかな?

それは、具体的に伝えること。例えば「10cmくらい上げてくれると入りやすい」など、手伝ってもらう際にはこんな風に伝えると手伝いやすいかもしれません。

上記のような障害者を交えたディスカッションや後から入ってきた職員と一緒に3者面談など、自分を変えるきっかけはいくらでもあります。僕もそれで「自分でやった方が早い病」に終止符を打った。

あれから ~曾祖母の法事・肩代わりの移動支援など~

初めて気持ちが解れて迎えた24歳の誕生日。母から甘酒のパックを受け取り、祖父母から靴下のプレゼントも受け取った。クリスマスの日には長い付き合いの友人からもズボンをプレゼントとして受け取った。
新しい誕生日として、これから変われる!と証明して1週間後。今度は曾祖母の訃報を受けた。樺太で生まれ、大好きだった歌と共に98年間生きてきた。昨年10月に一時危篤状態になるものの、驚異的な生命力で回復されました。旦那に先立たれてしまった分、自分は100歳まで生きる!と張り切っていた。が、その矢先の出来事。
12月3日、午後11時58分。眠るように亡くなってしまいました。大ばあちゃん。自分らしく生きてくれてありがとう。天国で大じいちゃんと旅行楽しんできてね。
みんなに見守られたい、と湯灌にも立ち会い、僕のピアノで旅立ちたいとまで言ってくださったので、休みを取り葬儀にも出席。
たまたま葬祭ディレクターの一人が母と知り合いだったため、長男である僕もその方に支えてもらいながら火葬にも出かけ、繰り上げ法要にも参加しました。詳しい出来事は次の項目より。

現主任のある言葉から親戚に立ち座りの動作を手伝ってもらった

12月4日の朝、曾祖母の訃報を受け、友人からお誘いを受けていたディナーは延期、葬儀の日に合わせ、病院に連絡し通院日も2日繰り下げてもらった。作業を抜けて家族や病院に連絡を入れたため、職員にも迷惑をかけてしまった。でも、僕のために動いてくれてありがとうございました。
そして迎えた12月6日。午前中は通常通り作業、昼食を終え、午後の作業が始まる寸前で母親が迎えに来た。
僕が準備している間に母は職員と一通り話をし、戻ってきた頃には薬も用意していただいた。すべて準備ができ、出発する際に母親の肩を借りた。
ブラックアイスバーンもあってか滑りやすい時期だったのと、車を停めた場所が遠かったこともあり、玄関前まで持ってきてもらった。

一見安全そうに見えるが、実は滑りやすくかなり危険。運転しづらいのもよくわかる。

男性の職員がいたので正直なところ、駐車場までの歩行、いや、玄関前からだとしても乗り降りを終えるまで肩を借りてほしいくらいだったが、多くの利用者に見送ってもらえただけでもすごくうれしかった(地域によっては冠婚葬祭でも移動支援が認められるみたい)。
そして、祖父母の家に向かい、祖父母や弟たちとの再会を喜んだ。すごく嬉しかったな。湯灌が始まるまでの間にシャワー浴を終え、双子の弟たちと一緒に遊んだ。曾祖母の顔も見に行きながら。
親戚家族や湯灌師が来て16時半に始まった2時間弱の湯灌。大ばあちゃんにとって最後のお風呂。とても気持ち良かっただろうな。数珠を持って時々合掌し、おりんも鳴らさせていただいた。

失礼かもしれないが、あの時来た女性の湯灌師さん、僕と同い年か1・2個先輩くらいに見えたな。
足が弱い僕と双子の弟を除く男性で棺桶を運び、納棺。このままではいけないと僕も誘導に回った。それが良いのか悪いのか。何なら母親が運び屋に回っても良かったかも。母は元々看護師をやっていてお年寄りや僕と同じ障害者と接しているうえに、よさこいもしていてスタミナがあるから。それに、親戚のおじさん(祖母の妹の旦那)僕が見るからに「大丈夫かな」と不安になるほど危なっかしい動きだったし。
だけど、その中でも一番親戚に助けられた2日間だと思っています。
祖母も足が弱いため法事の際には椅子を2つ用意していただいた。が、僕自身の意向で椅子を取っ払い、祖母の妹と旦那、その息子に立ち座りの動作を手伝ってもらった。すごく嬉しくて、今でも覚えている。その日があってようやく気付いた。

親戚の集まりはこんな感じ。まさか、立ち座りのお手伝いや乗車の際に肩を組んで歩けるとはまさか思ってもいなかった。


「僕は、こういった動作を職員にも手伝っていただきたい」

自閉症スペクトラムの診断を受けてからSOSを言語化できるようになるまでどのくらいかかったのでしょう。おそらく20年以上かかったかもしれない。
だが、迎えた葬式の日。乗り降りする場所のことで運転している母に暴言を吐いてしまった。
次の日の朝、起床後に家族分のおにぎりを作った。失敗作も1個あるが、まあまあそれはそれでいいじゃないか(笑)。

出発する直前で喪服に着替え、8時半ごろ、男性親族と母による出棺。長男である僕も誘導というポジションでチームの輪に入る。
最近、全員でやらないと気が済まないのよね。自分。駐車場での乗り降りに関してマイルールを崩せないのと同じ。
そして、母親の知人である式場スタッフの合図で3台同時に出発。葬儀場まで移動。そこまではまだ良かったが、問題は着いてから。
祖父母や親戚の車がバックしているにも拘らず、母親の車だけ「ちょっと待って!」と止まってモタモタ。実はこれが一番嫌いな運転だ。
結局玄関前に横付けてもらったため、歩行の面では助かったが、祖母は先に降車して既に歩いているし「駐車場に停めてもあんまり変わらないじゃん!」と正直思った。
やむを得ず祖母に支えてもらったが、母の予感通り、厳しそうな感じだった。
かといって母に運転席から出てきてもらうのも気が引けるので、止まった瞬間ドアを開けてしまった(出入口付近に付けてもらえるのありがたいけど、ここ一応通路だし)。
母は「待って!」ってびっくりした感じだったけど、実は自分でも思った。

「こんなタイミングで開けたくないけど、焦っちゃうよ…。横断歩道を渡りきれないとか露骨に足が悪いわけでもないし」

駐車場に停めてほしかっただけなのに、母に暴言。

母「ばあちゃんじゃ、厳しいかも…。」

自分「無理じゃない!うるさい!」

自分「できないなら本人の口から言うでしょう、お前は口を挟むな!」

なんて感じで口論になってしまった。最後は勢いで扉を閉め、そのまま出発してもらったが、出発前に親族等で話し合いをしなかった自分が悪い(親戚家族も自分に謝ってはくれたが…。)。
臨機応変な対応ってこんな時も大事になってくるな。まあ、正直なところ親戚に出てきてもらって肩を貸してほしかったけど。

自分のせいで車を停めてしまって申し訳なく思ってるし、責任を取り、反省の意も込めて四十九日の法要を欠席した。

大ばあちゃん、母への暴言を見せちゃってごめんね。そして、ピアノ演奏の機会を作ってくれてありがとう。

その後は何もなく葬儀・火葬・繰り上げ法要を一通り終えた。葬祭ディレクターや親戚にバスや車の乗り降り、移動を手伝ってもらいながら法事に参加した(母はもっぱら双子の弟に付いていく)。

それこそ、僕が求めている「安全かつスピーディーな乗り降り、動作」なのかな。

安全かつスピーディーな乗り降りや動作とは何か ~自身の経験から得たもの~

喪中で年を越し、今年に入ると20日には四十九日の法要があった。これ以上僕のために通路に車を停めてしまうのも申し訳ないので僕以外の家族で法事に参加。その間、僕はいつも通り仕事に取り掛かり、Instagramストーリーズの制作に入った。

故人が天国に旅立てることを祈り、昔から行われているのが四十九日の法要。身内なら出席しないとならないよな。

普通に考えればこういった法要には何があっても参加するのが一般常識と言われているので、非常識な人物として距離を置かれてしまうのも怖いが、駐車場での乗り降りに関するマイルールからトラブルを起こすと人間関係を壊してしまうし、曾祖母も楽に旅立てないので、あえて欠席。
その代わり、1年に3~4回はお寺に行くようにし、お詫びの気持ちと共に1人でお参りに行くつもりだ。
法要の次の日からこのチラシを作り始めた。これで意思を明確にし、一番してほしい配慮をしてもらうつもりだ。

乗り降り希望ポスター。運転者に提出することでしてほしいことを明確にする狙いがある。
足が弱く、転倒すると大ケガにつながるのでこういった配慮が必要になる。歩行の際、男性職員には駐車場から出入口まで肩を組んでいただきたい。

このポスターは既に施設には提出済みで、移動支援や通院等介助の際に肩を組んで歩けることになった。
1ページ目には駐車場での乗り降りとなっているが、実は玄関前でも構わない。母親がするようなモタモタ運転が嫌いなだけ(渋滞や踏切で止まるだけならまあしゃあないか)。
第一章にも述べた移動手段にも共通するが、今以上に路線バスにハマっていたのかもしれない。
バス停まで送ってもらってた時のドアを開けるタイミングも酷いもんだったな。シートベルトを外すのも進んでるうちだし。

2015年頃までの某路線バスは降車ボタンを押し、バス停に付いた後、完全に止まる前に開ける運転手の割合が高かったように感じる。そのため、下半身のリハビリは必須。安全に降りられる体制を整える必要もある。

今でこそ可能な限り男性やNarumiさんのようにタフな女性の肩を組んで歩き、手伝ってもらいながら乗り降り、そうでなく、ドラッグストア等の玄関前に横付けしてもらう時も完全に止まってからドアを開けるようにしているが(その際、シートベルトも外しながら降車)、高校時代から昨年秋までは、肩を組んでもらうことなど頭になく、それこそ路線バスみたく止まる寸前に開ける日もあった。以前はその方が早い、と思い込んでいたようだが、実際にはあまり変わらず、むしろ転倒リスクが3倍に上がる。それより、住所も入った行きたい場所リストを作って提出した方がよほど丁寧で効率良く動けるようだ。

これが移動支援の際に使う「行きたい場所リスト」。気分や必要な場面に応じて場所を変更、備考なども細かく書かれている。


自身の経験から、安全でスピーディーな乗り降りとは、目的地に着いたら完全に止まる寸前でドアを開け、止まったくらいで歩道に足を付ける。のではなく、目的地の中でも特に停めてほしい場所を明確にし、ナビに入れてもらい、到着したら可能な限り肩を借りながら降車すること。だと僕は思う。

例えばこんな感じ。細かい情報も入れるとわかりやすい。
移動支援の際はこれを参考にナビに入れていただけると運転もスムーズになる(下手したらワープできるかも?!)。

読者のみなさん。僕のような身体障害者を見つけたら肩を貸してあげてください。価値観があるので人それぞれだと思いますが、僕の場合は支えてもらえると嬉しいです。
支えてくれたみんな。本当にありがとう。

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