石橋をたたいて渡る人、橋にそもそも気づかない人。
以前、別記事で、約7年の付き合いがある親友と、わたしが正反対だという話した。
彼女は(中略)、すごく慎重派だと思う。石橋はめっちゃこまめに叩いて渡るタイプ。(多分わたしは、橋があることにも気がつかないタイプ。)
我ながらかなりピッタリな表現をしたなぁと思うのだけれど、よくよく考えてみると、彼もそうだ。
ふたりのような存在が無いと、わたしはきっと、危うい。
一直線に走りまくって、振り返らずに、進み、挑み続けるわたしの手を、そっと引き、見つめ直させてくれる人が、わたしにはふたりもいる。
見つめ直させてくれるけれど、しっかりと背中も押してくれて。
わたしはほんとうに、人に恵まれている。
だいすきな人が、年々増えていく。たいせつな人が、年々増えていく。
でも、それらは「自分がしたことが返って来てるんだよ」といつしか言われて、そのときは全然納得がいかなかった。そうなのかなと、首を傾げた。
でも、親友と話してる時に自分が言った言葉が、自分に返って来た。
以前の記事では、最後軽くまとめてしまったけれど、自分が動いた分だけしか戻ってこないのを実感している。それは、過去の自分が動いてくれたから、今の自分があると思っている。
元彼と出会えたのも、結婚相談所でパートナー探しをしなければ絶対に合わなかった、普段出会うはずのないタイプの人間だし、元彼と別れようと思わなかったら、今の彼とも出会わなかった。
それ以前に、マッチングアプリをしようと思ったのは、元彼に出会う前に、相談所の支社でお見合いした人と話していなかったら出てこなかった選択肢だ。(ちなみにその人とは誕生日が同じでだいぶ盛り上がった。元彼に出会わなかったら、2回目のデートの約束をしていたかもしれない。)
全てわたしが動いたことで起きたことだし、そこでやったことが全て、いまに繋がっている。
自分の行動に感謝するとともに、自分の行動を尊重してあげようと思った。
わたしは、わたしのために動いている。
人に言ったことが自分に帰ってくる場面って、最近すごく多くて。
相手を勇気付けるため、相手に助言するためにかけた言葉が、後から思い返すと自分が悩んでるときに自分に刺さったりする。
人付き合いは、おたがいが、おたがいを支え合えるような存在でありたいと心から思っている。
思いやりは、一方的なものだと思っているんだけれど、彼に、『俺が喜ぶと思ってやってくれた(考えてくれた)んでしょ?』て言われたときに、一方的なものでいいんだって思った。結果、相手にプラスにならなくったって、いいんだって。
でも、動かないと何も変わらないし、進めない。橋が、渡れるやつなのか、そうでないのかも分からない。
その道が、近道であろうと、遠回りだろうと、進まないほか、方法はない。
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