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一義的、多義的、派生的〈アリストテレス『カテゴリー論』第1章〉

まず、アリストテレスによる表題の語の規定から見ていく。ref.岩波全集12頁(1a1-10)

「同名異義的」と呼ばれるのは、名称だけが共通であり、その名称に対応した、事象の本質を示す説明規定は互いに異なるものである。

「同名同義的」と呼ばれるのは、その名称が共通であるとともに、その名称に対応した、事象の本質を示す説明規定も同一であるものである。

「派生名的」と呼ばれるのは、他の何かからそれの名称に対応する呼称を、語形を変化させることによって得ているものである。

おそらくここで引っかかるのが「事象の本質を示す説明規定」の語句だろう。この語句は訳者の中畑正志によって注釈されている。
まず「事象の本質」については、『トポス論』の「同名異義的」「同名同義的」の規定ではこの語句はもう登場せず、よって本書5章で紹介される意味での「本質ουσια」ではなく、より広い意味で理解されないといけない、とある。(本書13頁注釈(2))

次に「説明規定」については、この日本語はλογοςの訳出で、「問題となる事象の『何であるか』つまりものの本質的なあり方を示すもの」(本書13頁注釈(3))とある。本稿でも概ねこの意味で理解し、「語の指示する意味」と規定して使用する。

それでは、ある程度意味の規定をしたところで、次は上の語句達がアリストテレスの議論のなかでどのように使用されるか見ていく。
まず「同名異義的」だが、これは動物としての人間と絵画などの描写物の関係で例示される。(ここは議論が分かれるところらしいから詳しくは本書89頁補注Aを参照。本稿では両方の解釈のうち、簡単そうな一方を採用する。)この両者とも当時のギリシアではゾーオンζωονと呼ぶことができ、両者は名称は同じだがその意味は異なる関係にある。この意味で「同名同義的」だ、とアリストテレスは言う。日本語で言い換えれば、「世界の『はしend,edge』まで航海する」のそれと「東洋人は食事に『はしchopsticks』を使う」のそれとは、語の音形までは同じでも意味は大きく異なる。
この語は今後「多義的」とも呼んで使用する。

次に「同名同義的」だが、これは動物としての人間と動物としての牛の関係で例示される。「人間は『動物』である」のそれと、「牛は『動物』である」のそれとは、名称が同じでその意味も同じだから、「同名同義的」と言える。
この語は今後「一義的」とも呼んで使用する。

最後に「派生名的」だが、これについてアリストテレスは、「読み書きの知識」から「読み書きできる人」が、「勇敢さ」から「勇敢な人」が派生することをもってこの語を説明する。別の例で補うなら、これは日本語より英語の方がわかりやすいかもしれない。例えば、teachの動詞からteacherの名詞は派生する。また、identityとidentifyに共通するident-の語幹は、-ityと-ifyの接辞が後ろにつくことで名詞になったり動詞になったりし、identifyにあっては、さらに-icationの接辞をつけるすることでidentificationとでき、動詞を名詞に化することもできる。このように英語では、語幹に接辞を付与し語形を変化させることで、語彙的な意味は変化させずに文法的なバリエーションを増やすことができる。ちなみに日本語では、名詞つまり体言の語形変化(英語のI,my,me,mine的な格変化)はないが(これはおそらく、名詞の後に接辞の一種である助詞をつけ一文節を構成する、広義の格変化を行うため)、動詞や形容詞等の用言の語形は頻繁に変化させる。例えば、「浮く」(五段活用)は、その派生他動詞に「浮かす」を持ち、さらにその過去形に「浮かした」をもつ。使役形は「浮かせる」で、その過去形は「浮かせた」だ。
このように、アリストテレスの使う古代ギリシア語にも現代の日本語、英語にも多かれ少なかれ語形変化は見とめられ、またその仕方も、語幹と語彙的意味は温存し、接辞で文法的な意味を変化させるという点で共通する。
このような背景の下「派生名的」の語を理解しておくと、第7章の存在論的な議論を読み解くのに後々役立つと自分は考えている。
この語は今後「派生的」とも呼んで使用する。


以上、三語を紹介したが、これらの語は後々アリストテレスの存在論的な議論(存在の一義性、多義性等)に大きく関わるらしいから、事前にしっかり押さえておきたいところだ。

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