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関係的なもの〈アリストテレス『カテゴリー論』第7章〉

アリストテレス(6a30-40?)によれば、「何かに対する」「関係的」と言われるのは、

そのものが「他のものの・他のものより」という仕方でまさにそれであるところのものであると語られるもの

或いは

他の何らかの仕方で「他のものとの関係において」そう語られるもの

とされる。例えば、「Aはより大きい A is bigger」は、AはA以外の何か“より”大きいことを言い、また「Aは二倍大きい A is twice bigger」は、AはA以外の何か“の”二倍大きいことを言う。
両文とも、主語(:A)と述語(:より大きいbigger, の二倍大きいtwice bigger)以外に他のものがなければ意味が通らない。このように、主語以外の他のものを要請する述語を、「関係的」であるとか「関係的なもの」であると言う、と僕は読んでいる。

※ちなみに、これは読み飛ばしてもらって構わないが、今回の主題に説得的な説明をするのに際して、アリストテレスの話す古代ギリシア語と僕たちの話すの現代日本語との相違が大きな障碍になりうることを考慮されたい。日本語の後に比較的親しみのある英語を添えたのもその為だ。
文法の話をすると、日本語の比較は例えば「AはBより大きい」と言われるが、これを文節で区切ると、「Aは/Bより/大きい」となり、各文節の文法的機能を見ると、「主語(主格)/修飾語(奪格)/述語」となる。名詞はそれに格助詞「は」が付き主格に格変化したり、それに格助詞「より」が付き奪格に格変化したりする。このように名詞の格変化が名詞と助詞の二つの品詞によって行われるため、あたかも二語で一文節をなすように見えるが、言語学的には日本語の助詞は「接辞」であり「語」とは言えない。「接辞」とは独立の語(名詞、動詞、形容詞)に付き、体言の曲用(名詞の格変化)と用言の活用を手伝うものだ。日本語には動詞や形容詞といった用言の活用はあるが、形態的に確認できる名詞の格変化はない。しかしその代わりに、助詞という接辞が名詞に付くことで、文法機能上の格変化を実現している。アリストテレスの話した古代ギリシア語には、名詞も動詞も、文法機能上のものだけではなく形態的に確認可能な格変化がある。そのため、アリストテレス或いは英語話者が形態的に一語で言い表せるものが、僕たち日本語話者には、形態的な要素を二つ以上組み合わせないと表現できない場合が生じる。「より大きい」「の二倍大きい」はその例で、本来名詞に付くべき格助詞「より」を独立した一語である「大きい」という動詞と組み合わせて表現しているから不自然に感じるかもしれないが、アリストテレスの話す言語が背後にあることを念頭に読み流して欲しい。

さらに、アリストテレスは関係的なものとして、「より大きい」や「の二倍大きい」といった述語以外にも、「性向」、「状態」、「感覚知覚」、「知識」、「体位」なども数えている。
しかし、読解の進捗上、この中の殆どがどうしてそれが関係的なものと言えるのか分からないので、今回はスキップする。

それでは次に、個人的にこの章で最も重要だと思う6b30?-8b20?について自分なりの理解の仕方を書き出していく。ここでは関係的なものがまた新たな規定を受ける。本文を引用しよう。

関係的なもののすべては、相互換位されるものとの関係おいて語られる。(6b29-30)

「相互換位」という操作、「相互換位されるもの」とは何か。

A: 関係的なもの※1
B: Aと相互換位されるもの

※1)厳密には、このAは関係的なものだけではなく、その関係的なものがその本性(特性、本質、形相)であるような唯一のものも指しているので注意。
例えば、奴隷を有つことをその本性とする唯一のものは、奴隷を有つもの(つまり主人)であり、理性を有つことをその本性とする唯一のものは理性を有つもの(つまり人間)であり※、翼を有つことをその本性とする唯一のものは、翼を有つもの(つまり有翼のもの)であり、陸に棲むことをその本性とする唯一のものは陸に棲むものである、という具合である。ちなみに、関係的なものから、それをその本性とする唯一のものが派生する点については、7a5?-25?で、新名称を派生名的に与える仕方として議論されている。

※2)理性を有つものは人間だけではない、つまり神や天使や悪魔を理性を有つものとして数える立場もある。その場合、「人間は全ての理性を有つものである」が偽となり、「理性を有つこと」と「人間」の関係は、AaB:T, BaA:T型 から AaB:T, BaA:F型 へ、解釈が変えなければならない。こうした議論の為に、人間の説明規定には、「理性を有つこと」という種差(本質、形相)に加えて、「動物」という類(基体、質料)を要するのか否かについては、今のところ僕の知見の限りでは定かじゃない。

i)AaB:T, BaA:T型

「Aの(によって)B」:真
「Bの(によって)A」:真

ex1.「奴隷を有つこと」/「主人」

「奴隷を有つことは全ての主人について言える」:真
「主人は全ての奴隷を有つものについて言える」:真


ex2.「理性を有つこと」/「人間」

「理性を有つことは全ての人間についていえる」:真
「人間は全ての理性を有つものについて言える」:真

まず、「相互換位」が成立する場合を見ていこう。
アリストテレスによれば、関係的なものに属する「奴隷(を有つこと)」は、それと相互換位されるものである「主人」との関係において語られる、というふうに言える。例えば奴隷は「主人の(が)奴隷(を有つこと)」と言えるし、主人は「奴隷(を有つこと)の(によって)主人」と言える。そのため両者は、相互換位できる関係にある。
これではわかりづらいので、別の例を挙げて補うと、それぞれ「〇〇さん(父)の娘(〇〇ちゃん)」と「〇〇ちゃん(娘)のパパ(父)」に相当し、両句の「娘」は関係的なものに属する。不謹慎な例だが、事故などによって、ある父が自身の娘を亡くせば、その父は「父」の概念上もはや「父」ではなくなり(「父」としての資格を奪われ)、父が亡くなれば、その娘は「娘」の概念上もはや「娘」でなくなる(「娘」としての資格を失う)。このような概念上の関係にある両者において「相互換位」は成立する。(「父」と「娘」の概念の厳密な規定には立ち入らず、娘を有つものを父、父を有つものを娘と暫定的に想定している。なお、括弧「」括ったものは特定のものではなく、概念としてのそれを表現した。)

次に、「相互換位」が成立しない場合を見ていこう。僕は今のところ三つのパターンを確認している。全て例で示す。

ii-1)AaB:T, BaA:F型

「Aの(によって)B」:真
「Bの(によって)A」:偽

ex.「翼を有つこと」/「鳥」

「翼を有つことは全ての鳥について言える」:真
「鳥は全ての翼を有つものについて言える」:偽

一つ目は、「翼(を有つこと)」と「鳥」の関係だ。「翼(を有つこと)」は関係的なものに属し、「鳥の翼」というふうに表現できる。しかし、「翼(を有つこと)の(によって)鳥」というふうに相互換位できない。
或るものの正体を当てるアキネーター的なゲームをするとき、翼を有つというヒントだけでは、それが鳥であることを確証することができない。なぜなら、鳥以外にも、飛行機や昆虫が翼を有つからだ。言い換えれば、「有翼のもの(翼を有つもの)」という類は、「鳥」という種だけで構成されるわけではないからだ。
相互換位には、ある属性(これは関係的なものに属する)と、その属性を有つ唯一の種を用意する必要がある。

ii-2)AaB:F, BaA:F型

「Aの(によって)B」:偽
「Bの(によって)A」:偽

ex.「陸に棲むこと」/「動物」

「陸に棲むことは全ての動物について言える」:偽
「動物は全ての陸に棲むものについて言える」:偽

二つ目は、「陸に棲むこと」と「動物」の関係だ。「陸に棲むこと」(ちなみにこれは第3章で種差(差異特性)であると指摘されている)は関係的なものに属し、「動物の(が)陸に棲むこと」というふうに表現できる。しかし、「陸に棲むことの(によって)動物」といふうに相互換位できない。
また、「動物の(が)陸に棲むこと」についても注意が必要で、それは、全ての動物が陸に棲むわけではない、つまり「陸に棲むこと」は「動物」の概念の全てについて言うことができないということ、その意味で、この句においては「動物」の概念が十全に全うされていないということだ。
これはii-1で見た「鳥の翼(を有つこと)」と異なり、というのも、全ての鳥は翼を有つ、つまり翼を有つことは全ての鳥について言えて、その点で「動物の陸に棲むこと」と相違するからだ。両者とも相互換位できない点では同じだが、概念の連関が微妙に異なるので注意したい。

ii-3)AaB:F, BaA:T型

「Aの(によって)B」:偽
「Bの(によって)A」:真

ex.「奴隷を有つこと」/「人間」

「奴隷を有つことは全ての人間について言える」:偽
「人間は全ての奴隷を有つものについて言える」:真

三つ目は、「奴隷(を有つこと)」と「人間」(または「二足のもの」等、「主人」の概念に付帯するもので、これらは「主人は人間である」「主人は二足のものである」と言えるという意味で、「主人」付帯する属性だ。)との関係だ。
ここでも「奴隷(を有つこと)」は関係的なものに属し、「人間の奴隷(を有つこと)」と表現できる。しかし、「奴隷(を有つこと)の(によって)人間」と相互換位できない。
なぜなら、先程の正体当てゲームを思い出せば、正体不明のそれが奴隷を有つと言われたとき、確かにそれが少なくとも人間であることには違いないだろうが、人間の中には奴隷を有たないものもいるので、奴隷を失い、奴隷を有つことをやめたからといって、その人間が「人間」でなくなることはないからだ。先程の父娘の父のように、娘を失いその父がもはや「父」でなくなる、といったような関係が、「奴隷(を有つこと)」と「人間」の間にはない。
また、iで挙げた「翼(を有つこと)」と「鳥」の関係には、翼を有たないものは少なくとも「鳥」(また「飛行機」「虫」)ではないことが成立するが、こうした関係とも「奴隷(を有つこと)」と「人間」の関係は異なる。というのも、翼(を有つこと)を失えば、鳥は鳥としての資格を失うが、奴隷(を有つこと)を失っても、人間は人間としての資格を失うことはないからだ。

以上、相互換位の不成立の例として三つを挙げたが、僕の探索不足のためにまだこれ以上の数が見つかるかもしれないので、引き続き読解と思考を続け、見つかり次第ポストスクリプトの形で書くつもりだ。

まとめると、アリストテレスの一(いち)カテゴリーである関係的なものを理解するには、概念同士の連関を考える必要がある。概念の連関や結合は、普通、「SはPである」という命題の形で考えられる。
そして、それらの概念の連関を念頭に、何がそれと相互換位できるのか、できないのかを考えることができる。そして、今のところ相互換位できないパターンが三つ確認できる、という具合だ。

『カテゴリー論』にあっては、それが命題という形で遂行されることはなく(僕はせっかちなので先取りして全称命題を多用して説明してしまった。)、概念の内包を注視する方法で行われているように僕には読める。しかしそれは当然で、なぜならアリストテレスのオルガノンは、『カテゴリー論』は概念を、『命題論』は二つ以上の概念の結合の場である命題を、『分析論前書』『分析論後書』は二つ以上の命題の連関である推論をそれぞれ分析することで全体を構成しているからだ。だから、全体に占める『カテゴリー論』の位置づけ、領分があり、こうした事情があるので、議論の内容が一定の規定を受けることは否めないのだ。
そして、何より『カテゴリー論』で展開される概念論は、『命題論』と『分析論前書』で考察される形式論理学の種となるものだ。この観点があってこそ、「関係的なもの」の指示内容は厳密に規定できると思う。

アリストテレスの著作にはまだ読めてないものが箇所が沢山あるので、引き続きそれらの読解と参照に努めて、より整然とした説明ができるようにしたい。

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