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自分のルーツ

父が死んだ。
2022年12月3日のことだった。
もうすぐ初盆。

コロナで面会できず、
死に目にも会えなかった。

「心臓が止まりました」と、
病院から母に電話があり、
母は手が震えて、
自分では行けないと思ったらしい。
そう言って、私に電話してきた。

私は、妹と母を乗せて、車で病院へ向かった。

案内された個室には、
父の体が寝かされていたけれど、
そこに、父はもういなかった。

「お父さん、死ぬってどんな感じ?」

私は、心の中で聞いていた。

母も、妹も、私も、
虫の知らせみたいなものがあると思ってた。

何もなかった。

「お父さん、死ぬってどんなかんじ?」

夢に出てきたら聞こうと思っている。

死に目に会えなかったからか、
いまだに実感が薄くて、
悲しいとか、
寂しいとか、
よくわからない。

特別仲良かったわけでもないし、
よく喋る父でもなかったけれど、
“私”を作っている構成要素の、
結構な土台部分には、父が携わっている。
ように思う。

車の運転に親近感があるのも、
無駄口が嫌いなのも、
家族についての価値観も、
せっかちなのも、
猫がかわいいのも、
映画鑑賞が好きなのも、
なんとなくの感覚で事を進められるのも、
ここは譲れないっていう固い理想があるのも、
全て父の影響なのだと思う。

良いとか悪いとかじゃなく、
子の心に、人生を生きるための土台を作るのが、
親なのかもしれない。

その意味では、
父は死んでいない。

私の人生の、心の土台の一部となって、
個人的無意識と集合的無意識の境目くらいのところで、
確実に存在している。

よく、海外の映画やドラマで、
家族を亡くした人に対して、
「ちゃんと悲しんだ方がいい」って、
思い出話をさせて涙を流させるけど、
確かに、
涙を流すことは、リセットにつながるけれど、
それと、
“悲しむ”って同じなのかな。

よくわからない
ただよくわからない、そんな時間が、
必要って事もあるような気がする。
特に、
自分のルーツに関わる人の死は。
(それが”悲しむ”って事だと名付ければそうなのかも。)

ただ、
私の場合、ってだけかもしれないけれど。

おばあちゃんが死んだ時も、
愛猫が死んだ時も、
ちゃんと死に目に立ち会えた。
その時の私は、
実感を伴って”悲しむ”事が出来ていた。

立ち会う事が必要だっただけなのか、
自分のルーツに関係があるからなのか、
ただ、
年をとって感性がややこしくなった結果なのか、
(更年期ともいう。。。)
それはきっと、
ずっと答えは出ない。

それでも、
父が死ぬ事で、
たくさんの事に気づいたし、
今後の私の人生に必要な、大きな”なにか”を、
手に入れたような気もしないでもない。

言いたい文句もたくさんあったけど、
良いも悪いもひっくるめて、
それをまるっと”これが自分だ”と
認められるかどうかが、
“豊かさ”ってことなのかもしれない。

「お父さんの子で良かったよ」

夢に出てきたら、言おうかな。

(もう、出てこないんだろうけど。)

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