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未来の私のために。あの時何に感動したのかを思い出すために。

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今日ときめいた言葉。日常生活で出会った素敵な言葉、心動かされた言葉あるいは事柄について書いています。そんな言葉に出会った時、凡庸な日常が一瞬輝きます。ああ、私は言葉に生かされてい…
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#今月の振り返り

今日ときめいたこと153ー「今年もカルガモの雛が生まれた❣️」

毎年この時期になると、公園に来る人たちが楽しみにしていること。カルガモの赤ちゃんの誕生。皆さん立ち去りがたくて、つい足を止めてしまうようです。 今年は二羽の親鳥のお腹の下にはそれぞれ3羽ずつ。お母さんのお腹の下にもぐっていてなかなか泳ぎ出してくれない。でも泳ぎ出してもうまく撮れない。

今日ときめいたこと151ー「仲良きことは美しきこと哉」

今日はイーオットの兄姉とその連れ合い達との会食会。要はジジババの健康確認の食事会。イーオットは末っ子で兄とは9歳違い、姉とは3歳違い。3人とも仲のいい兄(姉)弟だ。 9歳違いの義兄を見れば10年後の我々の姿が想像できる。言わば我々の目安のような人だ。いや10年たって我々が彼のような状態に到達できているかは大いに疑問だ。いまだに草野球を楽しみ、車も運転するという。 かたや義姉。毎日柔軟体操を欠かさず行い、YouTube で太極拳をしているという。もう一年半も続けているという

今日ときめいた言葉140ー「規範意識が内面化されなければ、古い価値観は居座り続ける」

(2024年4月26日付朝日新聞「古い価値観対話でほぐせ」 政治学者 岡田憲治氏の言葉) (要約) 「不適切発言を繰り返す放言居士、例えば麻生太郎さん、森喜朗さん、トランプ前大統領のような人たちは、おそらくもう変わらない。だからと言って不寛容な価値観に対して寛容でいる必要はない。差別発言や侮蔑発言にはきちんと責任を取らせるべきである」 「問題はこういう放言居士に心の中で快哉を叫ぶ人たち、ポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスの意味も考えずに表面的に従っている人たち

今日ときめいた言葉133ー「日本人」とは何か。

(2024年4月10日付朝日新聞 「『日本人』を決めるのは」から) 「日本人とは何か。それは定義不能で、問題設定そのものが虚偽だと思います」(社会学者 福岡安則氏の言葉) 福岡氏は、定義可能なのは、国籍法による「日本国民」だけであると言う。それなのに日本人の多くは自分は典型的な日本人だと思い、自明のように「日本人」という観念を持っている。 この観念を「血統」「文化」「国籍」の要素で類型化すると三要素が全てそろった「純粋な日本人」の他に、いずれかの要素が欠ける人々がいる。

今日ときめいたこと128ー「今さらですか?」

沖縄戦で犠牲になった人の数もGIベイビーの数も把握してこなかった国が、 「太平洋戦争で心に傷を負った元兵士の実態について」調査に乗り出すことが決まったそうだ。国による調査は初めて!、である。 (2024年3月26日 朝日新聞 「戦争トラウマ」ー「心の傷」を知る) 戦争終結の1945年からもう79年もたっているのに、「一体どうした経緯で?」と疑問がわく。下の記事は元兵士に向き合った家族の話。家族も辛かっただろうが当の元日本兵だった父親はもっと苦しかったことだろう。 そしてこ

今日ときめいた言葉126ー「神々がよみがえるとき、憲法がたそがれる」

(2024年3月20日付 朝日新聞 「自衛隊と靖国参拝」憲法学者 斉藤小百合氏の言葉) 斉藤氏のこの言葉、美しいけれど実にこわい言葉だ。 斉藤氏は、「空洞化が進む憲法20条と9条」の現状をこう表現した。 「日本国憲法の制定には、旧体制(アンシャン・レジーム)と決別する意味があった」と語る。 政教分離を定め国家神道を解体した20条、軍隊を解体し戦力の不保持を定めた9条。だが現実は、自衛隊員の靖国神社への集団参拝や否定してきた集団的自衛権の行使を容認し敵基地攻撃能力が持てる

今日ときめいた言葉120ー「政治活動の自由は『責任』であり、国民に知る権利を保障することは『責任』そのものです」

(2024年2月27日付朝日新聞 「憲法を考える」蟻川恒正 日大教授の言葉) 政治資金規正法が基本理念としているものもこの「責任」であると話す。 「政治団体は、その責任を自覚し、その政治資金の収受に当たっては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行われなければならない」(同法2条) だからこの法律は、「規制」ではなく「規正」という言葉を使っているのだと。 今の政治家に欠落しているのは、この「責任」の意識である。選挙で選ばれたものが得

「桜田門外ノ変❗️」水戸浪士の足取りを辿るー北品川から外桜田門まで

水戸浪士が大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外ノ変」。その水戸浪士の足取りを辿ってみた。 何故?それはイーオットが「テーマに沿ってそれにゆかりのある道を歩く」というグループのメンバーで、次回のテーマ「桜田門外ノ変」のリーダーを務めることになったからである。どこにトイレがあるか、食事できる場所があるか、距離数はどのくらいかなどをチェックするための下見である。今回は全行程20キロだった。 桜田門外ノ変はドラマなどでよく見聞きしているので、開国派と攘夷派の争いくらいの基礎知識はある

今日思わず言ってしまった言葉112ー「一言かければいいのに!」

鼻歌まじりにいつものウォーキングをしていた時だ。後ろで気配がしたので振り向いたら、子供を後ろに乗せた若いお母さんだった。彼女はとても不機嫌そうで視線も合わせなかった。「ああ、私が彼女の進行を妨げたからなのだ」とすぐ理解した。 歩道を歩くときはいつだって極力端っこを歩いている(それは自分の身を守るためであるのだが) それに言うのもなんなのだけれど、ママチャリに乗ったお母さんのことは常日頃やさしい気持ちで眺めてきたし、敬意さえ抱いていた。バスや電車で出会う子供連れのお母さんに

「食べることは生きること、生きることは食べること」ー「誰かのために」の思いがあればこそ。

今日から夫は放浪の旅に出た。車中泊しながら山を登り歩く。行ったら1週間は戻らない。その間、一人きりの生活を満喫する。 もちろん食事などまともに作らない。かなり自堕落な毎日を過ごす。(これ、内緒だけど😅) で、フッと思う。今後一人きりの生活になったら私の食生活はどうなるのだろうか、と。 きっと今のような情熱(⁉️)をもって食事を作ることはないだろうなと思う。そんな気力は湧かないと思う。例え質素な食事でも「誰か」がそれを食べてくれるという思いがあるから、作る気になるのだ。