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パレスチナ人の声:ヨルダン川西岸の歴史と今

文・ラヤ(パレスチナ・ヨルダン川西岸地区在住、パレスチナ人)
翻訳、編集・ひろこ

[翻訳、編集より]
こちらの記事は、今もパレスチナ西岸地区に住むラヤさんからの寄稿です。
彼女たちから見たパレスチナの歴史について書いてくださいました。
日本ではなかなか習うことのないパレスチナの歴史や10月7日以降の状況についても書かれています。ぜひお読みください。



[パレスチナの歴史、1948年〜]
イギリスの委任統治が撤退を決定すると、イスラエルの民兵はパレスチナの村々に対して恐ろしい犯罪を犯し始めた。その結果、500以上の村が取り壊され、破壊され、75万人以上のパレスチナ人が立ち退きを余儀なくされた。

残された人々は、新しく設立されたイスラエル国家に統合することを余儀なくされたが、それでもまだ二級市民のように扱われている。(翻訳者注:「二級市民」とは、制度上差別されている市民を指す)

1948年、イスラエルはパレスチナの土地の85%を占領して建国された。主要都市のアイデンティティは抹消され、ユダヤ人の都市に変更された。

名前が変更された町名(@shahin_hazamy より)


第二次世界大戦が終わり、オスマン帝国が敗北した後、パレスチナはヨルダンと共にイギリスの委任統治下に置かれた。

各国の独立の波が始まった1948年、パレスチナもイギリスの委任統治下に置かれ、独立を約束された。

しかし、いざその時が来ると、彼らは代わりにヨーロッパやその他の地域からやってくるユダヤ人に土地を与えた。1948年以前、パレスチナ人の土地は密輸され、ユダヤ人に売られていた。

追い出されたパレスチナ人には、周辺の都市に移動するか、パレスチナ国内の他の都市に移動するかの2つの選択肢があった。そこで難民キャンプが設置された。

ヨルダン川西岸の主要都市には、現在でも1都市につき少なくとも2つ以上の難民キャンプがある。当初は都市郊外にあった仮設キャンプも、時が経つにつれて拡大する都市の一部となり、人々は今でも元の故郷や都市に戻ることを夢見ている。強制退去させられたパレスチナの老人たちのほとんどは、いまだに古い家の鍵を持っている。

パレスチナへの帰還の意思を示す鍵


1948年5月15日はイスラエルの独立記念日かもしれないが、パレスチナ人にとっては「ナクバ」であり、シオニストによる最初の大量虐殺の日である。

何千人ものパレスチナ人(パレスチナ・アラブ人の約80%)が土地、家、命、そして人生を失ったターニングポイントである。戻ろうとした人々も殺された。1948年には、5000人以上のパレスチナ人がイスラエル民兵の手によって殺されたと推定されている。

1967年、悲劇は続く。
周辺国のヨルダン、シリア、レバノン、エジプトは、パレスチナ人が自分たちの土地を取り戻すのを助けるために軍隊を準備した。

しかし、政治的な意図が根底にあり、「戦争」は6日間しか続かず、アラブ人の完全な敗北に直面し、イスラエルがパレスチナの残りの土地、シナイ砂漠、シリアとレバノンのゴラン高原を占領する結果となった。

パレスチナ人は、他の国籍のアラブ人たちとともに、再び土地を追われた。

イスラエルがパレスチナの人口の多い地域を放棄した一方で、1973年には分離独立が続いた。

ヨルダン川西岸にいた人々はヨルダン政府の支配下に置かれ、ガザにいた人々はエジプトの支配下に置かれた。
パレスチナ人の苦しみは、その時でさえも止むことはなかった。パレスチナ人が自分たちの国を作ろうと努力する一方で、イスラエルはパレスチナの土地に入植地を建設し、ヨルダン川西岸の土地を要求し続けていた。

1993年、現在のヨルダン川西岸パレスチナ自治政府はオスロ第2次協定に調印し、いくつかの土地に主権を与えたが、最終的にはヨルダン川西岸の土地を3つの地域に分割した。

1947年以降の緑の右側がヨルダン川西岸、左側がガザ地区(Dale Spencer@flickr)

エリアAは、パレスチナ人が多く居住し、パレスチナ自治政府の管轄下にある土地を指す。
エリアBは、イスラエルに占領され、イスラエル管理下にある土地を指す、
エリアCは、パレスチナ自治区とイスラエル自治区の共同管理下にある土地を指す(安全保障上の問題で)。


しかしイスラエルは、入植地や軍事地帯を建設することで、C地区を自国の主権に組み入れようとする努力を決してあきらめなかった。 また、長年にわたり、違法建築や許可不足を口実に取り壊し命令を出したり、高額な罰金を科したりして、パレスチナ人の生活を苦しくするあらゆる行為を行ってきた。

エリアCに分類されるパレスチナ人コミュニティは、学校のような公共建築物でさえ、建築や改築を許されず、常に苦しんでいる。パレスチナの学生たちは、いくつもの検問所を通過しなければならず、そこでイスラエル兵から嫌がらせや抑圧を受け、日常的に暴力の犠牲になっている。


エリアAであっても、すべての都市や村は入植地に囲まれており、都市の入り口や存在する場所には検問所があり、気まぐれに閉鎖したり開放したりできる。このため、都市間の移動は危険で時間がかかり、場合によってはほとんど不可能である。

入植地に囲まれた村は、しばしば入植者による暴力の犠牲になっている。入植者は、武器を持ち、イスラエル軍に守られながら、集団で村を攻撃する。

10月7日以降、こうした攻撃は激増し、入植者たちは村を襲い、家を燃やし、財産(車や木など)を破壊し、人々を攻撃している。これが、パレスチナのヨルダン川西岸地区の現状だ。



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