黄昏鰤 第50話

91日目 「暗渠!誰かの安らぎの道」 

 おれは夕暮れの並木道を足早に歩いていた。左手を強く引かれる。ちょっと急ぎすぎたらしい。歩調を合わせてあげたいけれど、早く行かなくては。日が暮れる前に家に……待てよ? 日は暮れないんだったと気付く。立ち止まって、振り向いた。手を引いていたはずの者はいなかった。
 ほんのりと体温の残った左手を見つめる。確かに誰かいて、手をつないで歩いていたと思うのだが。その時強く風が吹いて、並木の葉をいっせいに揺らしていった。

「あれ」葉擦れの音が遠く聞こえる。違和感がある。とんとんと靴で地面を叩いてみても、やはり音が控えめに聞こえた。
 耳に手を当ててみてはっとした。毛の生えた長い獣の耳だったそれが、すべすべで柔らかく、複雑な形のひとの耳に変わっている。聴覚も人並みに戻ってしまったらしい。そう、元に戻っただけのはずなのだが、聞こえていたはずのものが聞こえなくなるというのは痛烈に寂しかった。
 何故耳が戻ったのだろう。どこかの異形がなくなったときは、つまりどこかの異形が増えたときだ。多分。そう思って体じゅうを見たり触ったりして点検してみたのだが、どこにも変わりはないようだった。おかしいな。そもそもどうやって死んだのだったかと、おれは記憶を辿った。
 そして思い出したのは、あの金色の目である。少女の持っていた猫のような目。あの子に殺されたはずだ。ということはひょっとして、ひょっとして? おれはあたりを見回した。鏡はないか。ガラスでもいい。ひょっとして今、おれの目は。ああ鏡、鏡。どこかにないか。
 道路の曇ったカーブミラーを見上げる。小さく歪んだ姿が、金色の目でおれを見返していた。

 猫を探して今日も歩く。この目を気に入ってくれるだろうか、なんて夢物語を考えたりした。歩きながら、時折民家のガラスに映して自分の目を確かめる。その度に猫目が見つめ返してくる。きゅいきゅいと瞳孔を動かしたり、透き通った角膜を眺めて、おれは笑った。
 なにものにも出会わずに歩き続け、今度は休めるところを探した。空き倉庫とか、納屋なんかにいつも身を隠しているのだが、この辺りにはなさそうだ。それに今日はなんだかまるっきり暗いところで眠りたい気分だった。そこらへんのマンホールでも開けて入ってみようか、なんて。
 そう思って地面を見ると、道に交差して用水路があるのに気がついた。水嵩はほとんどなく、蛇口を一回ししたくらいの量がかすかに流れを作っている。途中からコンクリートでふたをされて暗渠になっている。行く先は川のようだ。おれは用水路に降りた。暗闇のトンネルを見やる。
 ばちゃり、ばちゃり、と微かな水音を立てて進んだ。屈まなくては進めない狭さだが、不思議と落ち着く。外から見たぶんには完全な暗闇だったが、猫の目で見ると案外くっきり見えるものだ。
 ばちゃり、ばちゃりと足音を続け、しばらくすると明るい出口が見えた。やはり先は川であるようだ。丸い出口の光はまだらにゆらめいている。
 そちらへ引き寄せられるようにのろのろと進んでいると、水路に似合わないものが鎮座しているのが見えた。座椅子だ。コンクリートブロックをいくつか積んだ上に布張りの座椅子が乗せられていて、水面から離されている。
 何故こんなものが? と思ったが、おれは結構疲れ果てていて、そこにありがたく腰を下ろさせてもらった。尾が邪魔なので横向きだ。ちょうど出口の光の届かぬ位置で、あまりにも真っ暗だがちょうどいい寝床になりそうだ。そう思って、おれは安らかに目を閉じようとした。
 ぎらりと二つ、光が灯った。出口と逆方向だ。
 そしてばちゃりと大きな水音がして、なにかが素早く動くのが微かに見えた。おれは何か考えるより先に右手で思いっきりそれを殴ってしまった。「っげう」と低く唸って水路の壁に叩きつけられたそれは、起き上がることはなかった。
 手応えを頭で反芻する。重かった、大丈夫だ。あの目は金色に光ったか?覚えていない。待て、大丈夫だ、あんなに大きいわけはない。声だって”らしく”ない。違う。おれは四肢が震えるのを頭の遠くで自覚しながら、殴り飛ばしたそれに近寄り、……姿を確認した。

 果たしてそれは、おれが探していた猫ではなく、ただの怪物だった。長い足の狐に棘が生えているような見た目の獣が斃れている。おれは止めていた息を吐き出した。ああ、よかった。本当によかった。真っ暗なところで襲わないでほしい。いや、立ち入ったのはおれの方か。
 ひょっとしてこの座椅子は彼のこしらえた安息の場所だったのではないだろうか? そこに勝手に座り込んでしまったのか? どんどんどんどん罪悪感が湧いてくる。瞳孔がまん丸に開くのがわかる。おれは死んでしまった彼を座椅子に座らせて、謝罪を念じると、別の寝床を探しにいった。


【魂16/力13/探索2】『猫目、角、火玉、竜尾、鬼腕』『名前前半喪失』

(つづく)

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