黄昏鰤 第37話

72日目 「検査!聴力には自信があるけど」

 生臭い汚れのこびりついた廊下をひたすら進む。どこまで行っても病室の引き戸が並ぶばかりだ。この病院、どれほど広いのか。まさかあの町のように果てがないのだろうか。こんなところであの男をどう捜せばいいんだ? 絶望の足音を感じながらも、とにかく歩くしかなかった。

「聴力検査です」

 突然すぐ近くから声が掛けられる。

「あなたも並んでください」

 咄嗟に振り返ると、灰色の看護服が宙に浮いていた。その光景に面食らっていると、腕と顔に何かが巻き付く。看護服の袖から伸びる黒い帯だ。なにやら異様に薄っぺらい人型のものが看護服を着ている。襟から伸びた黒い帯が丸い輪を作っているが、これが頭なのか? 目も鼻も無い。廊下の向こうが見える。口も無いのに話しかけてくる。

「並んでください、こちらです」

 巻き付いた部分がぎりりと締め付け、引き立てた。おれはなんとか振り払おうとしたが、出来なかった。

 連れられた先は、広めの診察室のようだった。やけに暗い部屋の中で、おれを連れてきたのと同じような帯人間がせわしなく動いているのが見える。何やら物々しい器具もだ。

「あれ?並んでないですね」とおれに巻き付く帯が言う。「いまなら空いてますよ」椅子に座った帯が返した。「よかったですね。すぐ検査しましょうね」

 帯が座る椅子の正面にある丸椅子に座らされた。隣には長机と、その上に黒い機械。2本のコードが伸びていて、一つはヘッドホン、一つはスイッチが繋がっている。「あよいしょ」おれに巻き付いていた帯が離れて、二つを手に取った。「これ付けて、これを持つ」
 角をよけてヘッドホンを嵌められる。長い耳が変に折れ曲がって痛いが言える状態ではない。手にはスイッチを押し付けられた。

「はい、じゃあ始めますね」正面の帯人間が言いながら機械のボタンを操作すると、ヘッドホンからブザー音が爆発した。

「ぁああああ!?」狂乱してヘッドホンを引きはがそうとしたが腕を押さえつけられる。暴れることもできない。視界が真っ白になるほどの轟音で、町で見たあの白い面が一瞬浮かび、おれは恐怖で気を失いかけた。「あ、あ、あ」「……ったらボタンを」帯人間が何か言っている。
 いつの間にか音は止まっていたらしい。聴覚がばかになっている。

「……ボタンをね、高い音と低い音と」

 言葉の途中でまた轟音が鳴る。残響に侵されて、音が止まったことが全くわからない。永遠にこれが続くのかと思われたが、やがてブザーは鳴らなくなり、おれの耳も死の淵から戻った。

「難あり」

 椅子の帯人間が言う。

「はい難あり」

「はい治療」

 周囲の帯人間が口々に返す。

「治るよ」

 カラカラと器具が牽かれてくる。
 耳の治療器具? ドリルのような刃物が3つと、ひたすらにネジがついたあれが治療器具? おれは自分が今まったく拘束されていないことに気が付いた。

「ごめんだーッ!」

「ああっ!?」

 おれは座っている丸椅子を思いっきり回し、竜の尾で周りの帯人間を薙ぎ払うと、全速力で部屋を飛び出した。

「治療を!」「治療を!」追いすがる声は徐々に後方に離れる。耳はがんがんぎんぎん痛み続けるが、とにかく走りに走った。


73日目 「再戦!どこまでも空へ」

 おぞましい検査を逃げ出したおれは、病院の廊下をめちゃくちゃに駆けていた。普段なら物音をよく捉えてくれる獣耳が痛みと耳鳴りで頼りにならない。それらが治まるまでしばらくかかった。
 気がつくと周りは小さな休憩所だ。血のような汚れが一番少ないソファーに腰掛けて休んだ。荒い息を整える。
 休憩所にはソファーがいくつかと、飲料水や菓子パンの自販機、新聞のラックなどが備え付けられていて、かつては患者や見舞客の憩いの場だったのだろうと想像できた。だがそれらがどうやって引き倒され、血に塗れ、今の惨状になったのかという想像も付いてきた。
 新聞を手に取って読んでみようとしたが、暗すぎて字が判別できない。火玉の明るさを利用しようと近づけてみたら、うっかり引火して、あれという間に燃え尽きてしまった。おれの興味も一緒に消し飛んでしまい、諦めてぼんやりと窓を眺める。黒いペンキで塗りつぶされた暗い窓を。
 なめらかに黒いガラス面、塗り残しの小さな隙間から黄昏の光がいくつも星のように漏れている。この外は、あの夕暮れる町なのだろうか。あれ、じゃあこのガラスを破れば出られるんじゃないか? 突然の思い付きだったが、試してみるのは悪くない。おれは立ち上がった。
 夜空のような窓に歩み寄る。星が瞬く。きらきらと、金色の星がおれを見ている。

「……?」

 黒い画面の中、金色の二つの星がおれを確かに見ている。金色。おれは振り返った。休憩所の入り口から、黒い体躯に金の瞳を埋め込んだあの怪物が、ガラスの反射越しにおれを凝視していた。
 黒い影は相変わらず小柄な青年のような姿をしていたが、頭の角の形が変わっていた。右だけが大きく、湾曲している。おれの方を見ながら歩み寄ってくる。休憩所のソファーを一つ片手で掴み上げ、投げつけてきた。しゃがんで避ける。ソファーは窓ガラスにぶち当たり、割った。
 部屋は黄昏の光で満ちる。金目の影だけが虚無のように黒い。いや、おれの右腕もだ。以前に彼からもたらされた黒い右腕で、こちらも別のソファーを投げ返す。彼は素早く、当てようもない。軽やかに距離を詰められる。おれは自販機を掴んで引き倒した。避けられる。
 結局また取っ組み合いになり、殴り殴られ、ガラス片で刻み刻まれ、互いに転げ回っていると、突然の視界が眩しくなった。内臓が浮いている感覚がする。何が起きたのかわからなかったが、黒い影の首を掴んだまま、影もおれの角を離さぬまま、互いに瞳から目を逸らさぬままに──

 おれたちは黄昏の空へ落ちた。


【魂14/力12/探索3】『獣耳、角、火玉、竜尾、鬼腕』

(つづく)

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