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スウェーデンの林

 増雄は妻や息子たちを連れて郊外の遊園地に来た。ここまで背負ってきた息子は、地面に降ろすや否やメリーゴーランドを見つけて一目散に駆けて行った。妻が慌てて後ろ姿に向かって、気をつけるのよと声を掛けている。
 彼は妻と一緒にベンチに腰を降ろした。
 遠くからジェットコースターが走り抜ける轟音に悲鳴と歓声が入り混じって聞こえてくる。増雄は、ベビーカーを並んで押す若い夫婦や手を繋いだ恋人たちが行き交う光景をぼんやりと見ていた。
 向こうに見える回転するティーカップの中に、ふと、短髪で溌剌とした笑顔の女の子の幻が浮かんだ。その途端、彼は八年前の記憶の中に巻き戻されていた。

 緑とはよくティーカップに乗った。早稲田大学に入学した頃からの恋人だった。実家が書店で、婦人雑誌が中心なのよと、よく本の品揃えの文句を言っていた。もう遠い昔のことのように思える。今では緑の笑顔を鮮明に思い出せないときがある。でもふとした瞬間、髪の毛を振ったりする何気ない仕草が、とてもリアルな質感で甦ってきたりする。痛みを伴って想い出が溢れてきた。

「あのね、演劇史Ⅱで面白い人に出会ったの。授業で出席を取る時、返事をしないのよ。それで声を掛けてみたの。とても変わった人だったわ」緑が喫茶店でそんな話を始めた。まだ二人とも二十歳になる前だった。
「孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ、とか言うのよ。変な寮に住んでて、よく住人の話をしてくれて、なんだっけ、そう、突撃隊と呼ばれている人とかね、それがもう面白くって」愉快そうに笑いながら話し続ける。「何ていうやつ?」「渡辺君。下は徹だったかな。渡辺徹」「知らないな。まぁ学部が違うから」その時は交友範囲の広い緑らしく、また変な友達が出来たぐらいに思っていたが、次第に会う度に緑は渡辺を話題にすることが多くなっていた。入院している父親の介護で大変なのも知っていたから、息抜きになる友達が出来たのも悪いことじゃないと思っていた。「講義ノートのお礼に、小林書店に来てもらって手料理を御馳走したら、近所で火事が起こって、ちょっと大変だったのよ」
 そのうち、紀伊国屋の裏手にあるDUGでよく飲むことがあると言うようになった。
「今度、渡辺君とポルノ映画を観に行く約束をしたの」と言われた時には、さすがにむっとなった。「男友達と映画に行くのは構わないけど、ポルノ映画に行くのは気に入らない」「どうして。あなたはそういうの、一緒に行くのは厭だと言っていたでしょ」「ああ。好きじゃない」「だから彼と行くのよ。固くて大きいらしいし」「そういう話は好きじゃないって、前から言ってるだろ」「冗談じゃない」「そんな冗談、全く面白くない」「焼いてるわけ。恋人はあなたしかいないわよ。彼はあくまでも面白い友達。だって、私でマスターベーションしたことないって言ってたもの」「だから、そういう話はやめろって」緑が奇抜なことを言いたがるのは、父親が脳腫瘍で入院していて、精神的に疲れ切っているからだとは理解していた。
 しばらくして父親は亡くなった。葬儀の後、彼女の希望で二人で奈良に旅行したが、思い出したくない最悪な展開になった。

 二十歳になった年の春、花盛りの桜と静かな空気に優しく包まれた公園で久し振りに緑に会った。緑の髪型が変わっていた。
「わたし、好きな人がいるの」緑がいきなり言った。増雄は何か言おうとしたが言葉を失って、沈黙が続いた。公園の桜が春の風に吹かれてさわさわと揺れた。「好きな人って、渡辺か」増雄は砂利の転がる地面をじっと見詰めた。脳裡を思考が濁流にように渦巻き、顔が紅潮してきた。「そうなの」緑はあっさりと言った。「渡辺には直子という彼女がいるんじゃなかったか」「そう。とても複雑らしいの」「そんな奴と付き合うのか」「わからない。でも好きなの」「もう渡辺とは会うな。会うなら俺は別れる」勢いで思わず言っていた。「わかった。あなたとは別れる」緑はそう言うと、背を向けて歩み去って行った。
 あまりに呆気ない別れだった。もっと冷静に彼女の気持ちに向き合えなかったのか、後悔ばかりが湧いた。半年前、夜の公園のベンチで抱き合ったことを何度も思い出した。「誰よりも愛してる」肩に腕を回してぐっと抱きしめて、俯いた彼女の頭に頬を寄せた。「ありがとう」彼の胸に顔を埋めてくぐもった声で緑が言った。

「あなた、何しているの?」耳元近くで大声がして我に返った。「佐々江か。びっくりするじゃないか」「何言ってるの。せっかく遊園地に来たのに、あなたが座ったまま、ぼぉーつとしているんじゃない」「ごめん、ごめん」「何の考え事してたの」「いや、あの」「案外、昔の恋人のことを思い出してたんじゃないの。増雄兄さんも隅に置けないなぁ」スポーツ刈で半ズボン姿の少年がニヤニヤ笑いながら言った。「何を言うんだい、勝男君。そんなわけないじゃないか」「そうよ、勝男。増雄さんに限って、そんなことはありません。ねぇ、あなた」「そうだよ、佐々江。そんなこと考えたことないよ」息子が駆けて戻って来た。「もう、何してるですか。じっとばかりで退屈ですう。あっちの観覧車に乗るです」「そうだ、あれに乗りに行こう。行こう、ほら、太良ちゃん」増雄は何かを振り払うように立ち上がって、息子と手を繋いだ。そうだ、何を考えていたんだ、俺は。今、ここにいる俺の愛する妻と子を幸せにすることが一番じゃないか。迷いなんかない。増雄は太良の手を強く握って歩き出した。

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