悩むよりまずはクリニック

「この歳で切除とは珍しいですね。よく思春期に受験勉強の妨げになるからと、親御さんがお子さんを手術に連れて来られることが多いんですが」
 四十代半ばぐらいに見える彫の深い顔立ちで恰幅のいい医師が、しげしげと私の方を眺めながら言った。私は気恥ずかしさを憶えて、視線を医師の目線から外して下に落とした。白衣の下に薄ピンクのシャツを着ているのが透けて見えて、なぜか目が離せない。
「なにか今頃、切除しないといけないようなことがあったんですか」
「いや、そういう訳では」咄嗟に言ってしまう。今になって恥ずかしくなって切除したくなったなどと、とても言えない。二十代のうちに自然に治まることも多いとよく聞くことを思い出して、顔から火が出る思いがした。
「恥ずかしがられることはありませんよ。もちろんこの年齢で手術に来られる方は他にもいらっしゃいます。むしろよく勇気を出して来られましたね」私が気まずい表情をしていることに気付いたのか、医師が私の気持ちを和らげようと口調を変えて言った。うっかり気を悪くさせることを言うと手術費用を払う患者を逃がしてしまう、と胸の内で計算したのかもしれないが、私としては救いの手を差し伸べられた気がして、ほっとした。心の中で葛藤した結果、恥ずかしくても意を決して手術を受けることにした以上、とにかくここで話を進めたかった。天井の白色光LEDが少し眩しいぐらいの光を周囲に降り注ぎ、ちょうど真下の机の上に置かれた太い胴体をした旅客機のフィギュアに直接当たって、白飛びさせていた。
「よく手術のことを過剰に心配される方もいらっしゃいますが、何も心配するようなことはありません。出血もほとんどありませんし、痛みも全くありません。日帰り施術も可能です」
「日帰りで出来るんですか」
「そうですよ。今は手術の技術も発達していて、午前に手術して経過観察をして夕方に帰れます」
「仕事があるので、日帰りなら助かります」
「全然、大丈夫ですよ。翌日から普通に自然な感じで仕事が出来ます。きっと、切除してよかったと実感されると思いますよ。後々の生活の質も変わってきます。えーっと、ご結婚されていましたね」
「ええ」確か受診前の問診シートにその質問があって、配偶者ありに丸をしていた。
「奥様も喜ばれると思いますよ。夫婦生活も格段に変わってきます」医師の淀みのない説明に、私の気持ちも上向いてきた。
「手術をするとなると、日程はいつ頃になりそうですか」
「えーっと」医師はパソコンの方に向き直った。マウスをクリックしてスケジュール表を表示させているのが、横からでもちらりと見えた。四角のマス目を赤い色か青い色が埋めていた。
「早い方がいいのでしたら、来週の火曜か木曜がいけますね」
「それでしたら火曜にします」私もスマホのカレンダーを見ながら答えた。「では、そうしましょう。予約を入れますね」医師がマウスを操作しながら、馴れた口調で話を続けた。「しつこいようですが、本当に年齢のことは気にされることはありませんよ。高齢の方だと後遺症の可能性が全くないわけではありません。でも、あなたのような三十代のうちは全然、心配いりません」
「安心しました」
「手続きは終わりです。あちらで看護師から手術前の注意事項の冊子を受け取ってください」
「よろしくお願いします」私は頭を下げて診察室を出た。医師はもう次の患者に頭を切り替えたようで、私の方に目を向けることもなくパソコンでカルテを凝視していた。
 廊下には看護師が立っていて、冊子を手渡され、詳しい説明をするからとロビーの方へ案内された。私は言われるがままに進みながら、手にした冊子を見た。表紙には「自意識切除手術のご案内」とカラーで印刷されていた。

 手術用の分厚く頑丈な椅子に深く躰を預けた。準備をしている年配の柔和そうな女性看護師に優し気に話し掛けられているうちに、緊張がほぐれてきた。
「お辛いんですか」
「そうですね。つまらないとわかっていても会社の同期との出世の差に屈辱を感じたり、仕事の評価が低いと、正当に扱われてないと苛立ったり。そもそも自分が何者でもないとそろそろわかってきて、堪らない気持ちになるんです」
「わかりますよ。思春期には切除されなかったんですか」
「そうなんです。親にはしつこく言われたんですが、頑なに断って」言葉がついて出た。「当時、彼女がいて、自慢の彼女だったんですよねぇ。友達にも見せびらかせたかったと言うか、得意の絶頂で。体育祭なんかでもクラスが違うのに応援席に二人で一緒に座ったりして。その気持ちがなくなるのが惜しくて。でもそれって子供みたいな優越感ですよね。今から思うと恥ずかしさの極みです。彼女が男友達と話をしていると割って入ったりとか、食堂で一緒に食べている時にそいつが来ると、邪魔するなよと追い払ったり」
「なんだかとても愉しそうにお話されていますよ」看護師がふふふと意味深な微笑みを浮かべた。
「えっ、そうですか」思いがけない指摘に戸惑った。
 薄緑色の手術着姿で先日の医師が入って来た。ゴム手袋をつけた手を伸ばして銀色の金属製の細い棒状の器具を取り上げると、中央部分を左右に回転させて調整していた。
「御存知だとは思いますが、自意識は五センチほどの黒い霞状で、脳の海馬辺りに浮揚しています。気体に近いので、耳からこの器具を入れて吸い出して除去します」
 医師はいったん棒状の器具を置くと、注射器を看護師から受け取った。「では、麻酔をかけますね。手術が終わると、とても生きるのが楽になっていますよ」

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