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屋敷ヤドカリの島と、届いたあるいは届かなかった便りについて


 屋敷ヤドカリのことは汐楼本島の民なら知らない者はいない。これは小さな木製の舟しかなかった百年も前の話。
 本島の北には紅帆島、紫帆島、黒凪島という三つの島があり、今でこそ大型船で結ばれているが、当時は速く急な潮流で遮られ舟で行き交うことはできなかった。あるひとつの方法を除いては。              

               *

  汐楼本島南側の穏やかな海に面して真っ白な砂浜が見渡す限り広がり、透明な水が陽光を反射させながら繰り返し波打ち際に打ち寄せる。
「ねぇ、ミキはどうするの」
 ぼくは答えを期待しながら彼女の気持ちを訊く。一緒に行きたいと自分から言わないのは、ぼくの卑怯なところだ。卑怯ということじゃないな、ただのヘタレだ。
「みんなの渡りまであと三ヶ月なんだね。もちろんヨシと一緒に紫帆島へ行く」
 ミキが立ち上がって、白い海衣についた砂を払い落す。ミキは素潜りが得意で、毎日潜っては夕食用の白乳貝をたくさん獲ってくる。おかげで肩はがっしりしていて、逞しくて少し太い脚がぼくには眩しい。
 ぼくたちは十七歳の終りに、選択をする。
「あっちではやっぱり〈潮歌うたい〉になりたいな。難しいと思うけど夢だから」
 ミキは、遥か彼方の水平線を強い視線でじっと見詰める。
「ぼくは詩が書きたいな。誰の歌が好き? ぼくはナムナ。彼女は自分で詩も書いてるんだ」
「最近はモナかな。でもナムナも聴いてみる。いつかヨシの詩を歌えたら最高だな」
 そう言うミキの日焼けした笑顔が素敵に輝いて見える。

 汐楼本島の南に広がる青い海は豊かな漁場。大小さまざま、色とりどりの魚たちが悠々と泳ぐ。島民は早朝に小舟で網の仕掛けを海中に投げ入れ、海辺で夕方までのんびりと待つ。網を編んだり貝殻で首飾りを作ったりしながら。
〈潮歌うたい〉の歌が始まった。〈潮歌うたい〉は汐楼にも十人ほどしかいない特別な存在。歌が潮風に乗って運ばれ海中に溶け込み、魚たちを導くとの言い伝えがある。〈潮歌〉が美しいほど、魅惑された魚たちが引き寄せられると。でもぼくたちにとって〈潮歌うたい〉は、豊漁祈願ではなく、美しい歌声で心を沸き立たせてくれる憧れの存在と言った方がふさわしい。
 海辺で歌声を響かせているのは、〈潮歌うたい〉で最も若いナムナだった。ナムナの旋律は伝統に縛られない自由さがあって、陽気な海を吹き渡る潮風のように爽やかで心が明るくなる。ぼくも詩を書いていたけど、全然ナムナの歌には程遠い。それでもミキは「ヨシの優しいところが出ていて、そこがいい」と言ってくれるけど。
「ナムナの歌、いいね。好き」
 ぼくとミキはナムナが歌う日は、学校の帰りに約束して一緒に海辺へ行くようになった。二人で聴くナムナの歌〈波間の羽根〉は素晴らしかった。

   わたしには声がない
   あなたにも
   朝が早くに来てしまう
   波が遠くひいてしまう
   島影にて
   風で髪を洗って待つ

 ぼくたちは聴きながら、そっと手を繋いだ。

「シュンもナムナの歌が好きらしいの。一緒に聴きたいって。いいでしょ」
 ミキがそう言って同級生を連れて来た。地理の授業で見たことがあるが話したことはない。実際に話すと、シュンはいろんな〈潮歌〉に詳しかった。「最近はサミとかブロムの歌もいいよ。あとリムルも。聴いているとゆったりと潮風に包まれる気分になる。今度、教えてあげる」
 シュンは背はぼくより少し低かったが、しなやかな躰つきをしていて動きも敏捷だった。黒凪島を目指していると言っていた。シュンの祖父は獰猛なツノ蟹がいる黒凪島に渡り、シュンも誇りにしてよく自慢気に語っていた。「祖父のことを自分の手柄みたいに言うのは恥ずかしくないか」と、ぼくはつい周囲に陰口めいたことを言ったりしたこともあった。
 海水が少し冷たくなる季節になると、学校は慌ただしい空気に満ちる。本島に残るか、三つのどの島に渡るか、いよいよ選択の季節が来る。三つの島は本島の民が入植して開拓した島で、まだ人口が少なく本島から人が渡る必要があった。紅帆島と紫帆島にも独自の〈潮歌うたい〉がいた。
 のんびりしていた同級生もさすがに勉強に慌て出す。危険なツノ蟹と戦えるよう黒凪島の試験が一番難しく、数年に一人ぐらいしか合格しない。他はさほどとは言うものの、遊んでいて通るほど甘くはなかった。紫帆島へ渡るつもりのぼくとミキは、学校で一緒に勉強をするようになり、それから海辺で〈潮歌〉に耳を傾けて過ごした。自分たちだけが幸せを独占している気がした。
 シュンが歌を聴きに来ることがめっきり減って、ぼくは少しほっとした。「最近、あまりシュンが来ないね」
「試験対策って、けっこう大変って言ってた」
 ぼくは手をのばしてミキの左手を握った。いつもの大きいけれど柔らかい掌。ミキはよく砂浜を掘り返していた。
 二か月後、久し振りに姿を現したシュンは合格したと告げた。
「これのお陰だよ」と笑顔でミキに見せていたのは、銀三角貝で作ったお守りだった。銀三角貝は砂の奥深くに潜っていてなかなか獲れるものじゃなかった。

 いつもの海辺に向かう小径を下ろうとして、ミキは、今日は行けない、大事な話があると言う。誰もいない教室に二人だけ残った。空いている席に向かい合って座る。
「ごめんなさい。一緒に紫帆島には行けなくなった。ずっと悩んでた。ずっと、ずっと。〈潮歌うたい〉の夢のため島に残ることにした」
 耳を疑うということって本当にあるんだ。今のは本当にミキの言葉?
「どういうこと? よくわからない。あっちで〈潮歌うたい〉になるって言ってたじゃないか」
 ミキは、繰り返し本島で歌の勉強したいということを説明してくれた。「ごめんなさい。あなたと一緒に夢を叶えたいと思ってた。本当に思ってた」
「島に渡ると二度と会えない。お互いどうなったかもわからなくなる」
「わかってる」
「ミキが〈潮歌うたい〉になって幸せになっても、ぼくはあっちで知ることもできない。そんなの」
「ごめんなさい。出発の日には必ず見送りに行くし、それまでずっと一緒にいる」

 ぼくが紫帆島に渡る日がきたが、突然、延期になった。紫帆島に渡る屋敷ヤドカリの片割れが病気になり、快復するまで待つことになったのだ。
 翌日がシュンが黒凪島に渡る日だった。これから渡る黒い屋敷ヤドカリのつがいが岩礁の上に姿を現した。こんなに近くで見るのは初めてで、大きさにやはり圧倒された。屋敷と言う名前の理由がよくわかる。屋敷は大袈裟にしても小さな家ぐらいの大きな殻を背中に載せていた。すでにシュンはオスの漆黒の殻の中に入り、メスの方はもう海に入りかけていた。相棒はシュンが指名できる掟だったから、一緒に狩りをする屈強な友人が乗っているに違いない。屋敷ヤドカリのつがいは本能に従って、黒凪島の方向に向かって波間に姿を消した。ぼくのいる岩礁からは黒凪島は小石ぐらいにしか見えなかった。いかに遠いかあらためて実感した。

  ぼくはその夜、星を見上げながらベットに横になって、紫帆島への渡りが延期になったのも運命じゃないかと考えていた。渡りをやめ本島に残ればいいんじゃないか。紫帆島へ渡って〈潮歌〉の詩を書くのは夢だったけど、ここに残ってミキと一緒に暮らす方がよっぽど幸せな気がした。明日、ミキに話そうと心に決めた。

 翌日、学校に行ったぼくは、ミキがいないことに気付いた。教室をまわったけど、誰も知らなかった。自分の決心をずっと黙っていたのか。渡りが延期になっていなければ、ぼくは真相を知ることはないはずだった。いかにもミキらしい優しさだった。
 学校の帰り道で、ロウタ先生と会った。
「ヨシ、西浜に紅い屋敷ヤドカリのつがいがいた。あれは週末には渡りそうだ」
 ぼくはその時、唐突に紅帆島に渡ろうと思った。ミキのいない本島にいるのは辛過ぎた。紅帆島は開拓が最も進んでいない島で、苦労するのは明らかだったけど、だからこそ過酷な仕事をして苦労したかった。その上で美しい詩を書いてみせる。家に着くとすぐに荷物をまとめて準備した。大きな背負い鞄ひとつ分。試験も簡単に通った。開拓の遅い紅帆島は格下に見られがちで、希望する者も少なかったから。

  ロウタ先生の言うとおり四日後、まだ夜が完全に明けない薄暗い岩礁に、つがいの紅いヤドカリが姿を現した。成体で産卵の準備も終えている。
 隣の岩の上に更に大きな屋敷巻貝の殻が準備されていた。昨日のうちに島民が運んできた。死んで空になった屋敷巻貝を運び、殻の中を木の支柱で補強し、空気漏れしそうな箇所を漆喰で埋めて、ぼくの渡り用に改造を終えてあった。
 屋敷ヤドカリは、自分が背負っている殻よりも大きな殻を見つけると、本能的に殻を替える。自分の背負う殻から体を抜き出し始めた。
 ぼくは慌てて僕は鞄を背負うと、渡り用の殻に入った。奥に入って行くと、隙間から差し込む光も弱々しくなり、手探りで進んだ。巻貝の殻なので奥には充分な広さの空間があった。ここに溜まった空気はちょうどぼく一人分で、渡りの間、呼吸して生きることができる。僕は腰を降ろした。
 最初の殻を脱ぎ捨てたヤドカリは、ぼくのいる殻に体を潜り込ませてきた。まず、腹部の後ろにある鈎爪状の尾脚を殻に押し込み、がっちりと殻を掴んで固定する。ぼくは刺々しい尾脚にぶつからないように体を引き上げた。
 紅帆島行きに反対していた両親は、どこか遠くから見ているに違いなかった。戻れないし消息もわからなくなる。ミキと同じように。
 しばらくすると、歩脚がもぞもぞと動き出す気配がして殻自体が大きく揺れた。ぼくはしっかりと殻の壁につかまった。尾脚のところまで海水が入り込んできた。ヤドカリが海中に入ろうとしているのだ。たまらなく不安な気分になって、腕で自分の体を抱きしめた。そうしないとがたがたと震え出しそうだった。もう戻れない。ぼくは本当にひとりぼっちになってしまう。
 泡がごぼごぼと海中を昇っていく音がした。ヤドカリが海底に着いて歩き出したんだろう。“渡り”を始めたのだ。屋敷ヤドカリは産卵のために海底深くを歩いて島を渡る。本島と北の三島は激しい海流で舟では渡れない。ただ唯一、移動する手段が屋敷ヤドカリの殻の中に入って一緒に渡ることだった。誰がこの方法を発見したかは、幾つかの伝説があるけれど、真実はわからない。
 ぼくに学校で屋敷ヤドカリの生態について教えてくれたのは、ロウタ先生だった。
「本島で育って大きくなった屋敷ヤドカリはつがいになって、生まれ故郷の島に戻り産卵する。産まれた幼体は島だけに自生する海藻を食べて育つから島ごとに色が違う。一年ほどで海を渡れるほどに成長して、渡りで本島に戻って来る。でも幼体には人は乗ることはできないから、人は帰れない」
 貝殻の壁を通しても周囲が明るくなっていくのがわかった。海岸の煌めくような陽射しの気配を感じる。屋敷ヤドカリが海から上がったんだろう。ぼくは巻貝の奥からゆっくりと滑り降りた。

 紅帆島に渡ったぼくは結局、詩を書くことも〈潮歌〉にかかわることもなかった。それまで島には生息していなかったツノ蟹が突然、現れて繁殖を始めたのだ。理由はわからない。たまたま屋敷貝に付着していた卵で伝播したのか、それとも誰かが持ち込んだのか。さすがにそれはないか。
 狂暴なツノ蟹の出現は、豊かな果実と麦の栽培で営まれていた島の生活を一変させた。たちまち十数人の島民が命を落とした。ぼくは島民の葬儀に立ち合いながら決意を固めた。ツノ蟹と戦うしかない。自分でも不思議なことに、心の奥から何か湧き上がってきた。ぼくは率先して力仕事を担い躰を鍛え、毎日、槍の練習を繰り返した。
 木製の盾で鋭いツノの攻撃を防ぎながら接近し、槍で体をひっくり返し穂先で蟹の柔らかい腹の部分を刺し貫いて仕留める。気が付けばそれなりの戦士になっていた。
 やがて同じく蟹と戦う娘ヒロと出会った。ツノ蟹の数も見る見る減っていった。
 産卵を終えた屋敷ヤドカリのつがいはそのまま島で息絶える。ぼくたち島に渡った者も、定住して結婚して子供が生まれ孫が生まれるという人生。気付けばあっと言う間に三十年が経っていた。ヒロとの間のひとり娘サナは既に立派に成長し、遠浅まで出て貝を獲るのが得意な若者ヤナと結婚していた。
 この島で一生を終えるのだと思っていたが、運命が急転する出来事が起こった。島の長老会議に呼ばれた。長老が手にしていたのは小さな紙切れだった。
「この季節、各島を巡って渡り鳥が飛んでくるのは知ってるな」
「啼海鳩ですか」
「そうだ。その啼海鳩の脚に小さな筒が括ってあって中に紙切れが入っていた。手紙だ。かなりの数を飛ばしたようだが、見つけられたのは四通だけだ。自由に飛来して巣を作るのでなかなか発見できない」
「まさか、そんな連絡方法が」
「本島には知恵者がいるようだ。
 手紙によると、汐楼本島に最近、ツノ蟹が大量に現れ島に甚大な被害が出ているらしい。本島は助けを求めていた。
「助けるってどうやって」
 長老の提案には驚いた。屋敷貝より小さい蝸牛貝という種類がいて、これに巧妙に細工して幼体に取り付けなんとか本島に戻れないかというのだ。その初めての試みに選ばれたのがぼくとヒロだった。
「行ってくれるか」

 貝殻の壁を通しても周囲が明るくなっていくのがわかった。海岸の煌めくような陽射しの気配を感じる。屋敷ヤドカリが海から上がったのだろう。ぼくは奥からゆっくりと滑り降りた。
 ぼくは三十年ぶりに汐楼本島の海辺の砂を踏んだ。傍らに追いついたヒロが一緒に歩いている。
「ここがあなたが育った島なのね」
 ああ、まさか本当に戻って来れるとは思わなかった。
 島に戻った翌日から、戦士としてツノ蟹との戦いが始まった。ぼくとヒロは二人で果てしなく戦った。
 ある時、ヒロが槍の手入れをしながら言った。
「啼海鳩の便りって広まってるらしいね。黒凪島からの便りも見つかったそうよ」。
 ぼくは翌日、手紙を保管している長老の家を訪ねた。千切れて一部分しか残っていなかったが、筆跡に見覚えがあった。

   “島影にて
    風で髪を洗って”

                               (了)


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