蜘蛛の糸
生温かく赤黒いねっとりとした液体の中を漂いながら見上げると、上空は重く厚い雲に覆われ、陽光は微塵も窺えない。ここはどこだ?
黄から赤信号に変わった瞬間、交差点でトラックが右から突っ込んできたのは憶えている。俺の軽自動車は簡単に撥ね跳んで横転し、歪んだ車体フレームが俺の躰を圧し潰して鮮血が噴出し視野を真っ赤に染めた。直後、激痛が来たがすぐに意識がなくなった。
気がつくと、闇の中で粘り気のある重い液体に浮かんでいた。液体からかろうじて顔だけが突き出ていた。濃厚な鼻を刺す鉄分の臭いにむせ返った。血か。血の海に浮かんでいるのか。ここは地獄なのか。
暗闇の中で頭上を仰ぎ見る。どんよりと雲が重く垂れ込め、時折、稲妻が雲の合間で瞬くように光る。しばらく遅れて雷鳴の轟き。遠くから伝わる響きは重量感があって、躰が腹から震える。周囲を見渡すと無数の男女が浮かび、一縷の光を眸に宿らせ頭上に目を凝らしている。
「なぜ、皆、上を見ているんだ」
俺は隣に数メートル離れて浮かぶ初老の男性に話し掛けた。頭髪も顔も血に染まって見る影もないものの、ダークスーツを身に着けきちんとネクタイを締めている姿からは、それなりの地位にあった人物のように見えた。
「そんなこともわからないのか」
男は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。その拍子にうっかり鼻から血を吸い込み、ごほごほと苦し気に噎せた。いい気味だ。
「あれを待ってるんだ」
「あれ?」
「鈍い奴だな。唯一の希望、蜘蛛の糸だ」
蜘蛛の糸。それが降りてくる可能性があるのか。
「本当に脱出できた者がいるのか」
「うるさいやつだな。信じないなら泳いであっちへ行け。針の山がある。まだ土地に立てる分、ここよりマシかもな」
男は俺を追い払おうとした。糸に縋る人間は少ない方がいいに決まっている。
俺は男に返事せず、黙って浮かんでいた。本当に蜘蛛の糸なんて降りてくるのか。そもそも俺はなぜここに堕ちたんだ。ただの会社員だ。犯罪には縁がない。美菜のことか。あの頃は若かったんだ。正直、学校で弱い奴を虐めたことはある。でも子供の頃の話だろ。俺は根っからの悪人じゃない。
時折、上空に向かって何か叫んでいる者がいる。血の波のうねりの向こうで、必死の形相で叫ぶ貌が見えた。
「俺は車に轢かれて怪我した猫を病院へ運んで助けたぞ!」
善行を自分で主張か。お釈迦様に叫んで届くものなのか。馬鹿馬鹿しい。
辺りにほんの微かな明るさがあったが、地獄でも太陽は巡るのか、しばらくすると漆黒の闇の帳が下り一切の光が失われた。夜か。血の池に浮かびながら眠りに落ちた。深い眠りに落ちて、がくりと頸が倒れる。たちまち耳に生温かい血が入り込んできて、苦しさより気持ちの悪さで目が覚める。熟睡など出来ない。安眠できるならそもそも地獄ではないか。強烈な睡魔が襲ってきて、がくりと顔を血の池につけてしまう。血が口に流れ込み喉に侵入して思わずえずく。苦しさに呻きながら覚醒する。眠れない苦痛は死ぬより苦しい。喘ぎ悶えているうちに東の方角が薄明るくなった。朝を迎えたか。
眠れず朦朧とする頭で、仄かに明るくなった頭上を見上げた。
蜘蛛の糸は生前に何か小さな善行を積んだ者に差し伸べられるものだ。
「隣の婆さんが倒れているのを発見して救急車を呼んだことがあるぞ!」
あちらの方でヤクザ風の男が叫んでいた。
「俺は大震災の時に、募金で一万円寄付した!」
別の野太い男の声がした。一万円かよ。必死か。
「わたしは四回も献血したことがあるわよ!」
「生活に困った友達に五万円貸したことがある!」
あちこちから次々に絶唱が上がっていた。どれも小さい。いや、馬鹿にしている場合じゃない。俺も思い出すんだ。何かあるだろ。焦ると何も思い浮かばなかった。俺も懇願され金を貸したことはあるが、返さなかったので蹴っていた。
「あっちの男、あれは駄目。毎日叫んでいるけど会社の功績ばっかり。馬鹿の仕事人間。ここじゃ意味なし」
波に流されて俺の傍らまで寄ってきた女が言った。吊り上がった目つきをしていた。
「ねぇ、協力しない。糸は数人なら大丈夫なはず。わたしの声は小さいから代わりに叫んでよ。大声の方が届く可能性が高いからね。糸が降りてきたら一緒に登らせてあげる」
何もない俺には妙案に聞こえた。
女が耳打ちした。
「借金で困っている女がいたからお店に紹介してやった」
女の言うとおり叫んだ。
「近所に怪しい外国人がいたから警察に通報してやった」
この女の言うことは胡散臭い。離れた方がいい。力を振り絞って血の海を泳ぎ女の傍から移動した。女は「裏切るのか」と罵詈雑言を投げつけてきたが無視した。
俺は叫ぼうとしたが何も思いつかなかった。愕然とした。他人のために何もしたことがない。
「どうせ俺は何もない! はははっ。でも人間ってそんなもんだろ」なぜか笑いが込み上げて大声が出た。「で、お釈迦様とやらはあるのか。他人に誇れるような善い行いって、見せてみろよ」
突如、上空から銀色の細い線が無数に降りてくるのが見えた。血の池に浮かぶ薄汚れた男女の群れに蜘蛛の糸が降り注ぐように垂れてきた。皆が手を伸ばす。俺も慌てて掴もうと腕を上げた。