果樹園は海底にたゆたう

(お願い:小さい2が表示できないため二酸化炭素をCO2と表示しています)

 市議会から戻った母さんが、そのまま僕の部屋に入って来た。
「侑司、そろそろ、あなたもチョウチン鮫狩りに行く?」
 母さんに突然そう言われて咄嗟に意味がわからなかった。しばらくしてその意味に気付くと、あまりに嬉しさに飛び上がりそうになった。
「本当?」
 部屋は、天井に植え込まれている発光苔だけの灯りだけで薄暗く、母さんの顔つきもよく見えたわけではなかったけど、決して甘い表情なんかではないことは想像がついた。最近、ますます電気の供給が制限され、夜八時になるともう電灯は消されることが多かった。とうとう、この地区の発電システムも維持が難しい状況になりつつあることは、子供の僕にもわかった。
「もう十五歳だからね。ただし、狩りの練習は厳しいから覚悟して。直人に頼んである。それからCO2畑の仕事もこれまでどおり」
「嬉しいよ、母さん。絶対に頑張る」
 
 翌日から早速、直人兄と海底に出て厳しい練習が始まった。直人兄は母方の三歳上の従兄になるけど、僕には兄弟がおらず、小さい時からよく一緒に遊んでもらったので、自然と直人兄と呼んでいた。
 黒い大きな潜水服を装着して、気閘室から海底に出た直人兄は、別人のように厳しかった。かつて大気圧型潜水服と呼ばれていたタイプで、僕も初めて着たわけではなかったけど、まるで金属製の箱を着ているようで、水中の動きは全く思いどおりにならなかった。すぐに海底の砂に足を取られて転倒した。直人兄は一切、手を貸してくれなかった。
「自力で立て。立てないと本番で命取りになるぞ」
 僕は必死で練習した。チョウチン鮫の狩りに出られるのは一人前の証だから。直線一キロを猛ダッシュで泳ぐ、鋭い歯から直前に反転して逃れる、動きを止め水の揺らぎを抑え忍び寄る、真っ暗な海中で気配だけで深海魚の動きを探る、そうした基本的な技術の練習を繰り返す。
 これを機械のような潜水服を装着してやるのは、至難の業だった。光の届かない暗黒の深海では、ガラス面の向こうにいくら目を凝らしても何も見えなかった。バッテリーを使って照明を点けることは、命に係わる緊急事態の時だけと決められていた。消耗したバッテリーに充電する手段はもはや失われていたから。潜水服の中に発光苔を入れてはいたけど、手許を確認するのがやっとの心許ない明るさだった。
 僕は、練習が終わると、正直へとへとで倒れそうだったけど、母さんとの約束を守ってCO2畑の管理もさぼらなかった。畑の当番は、学校のクラス単位で決められていて、四組の半分、僕、由衣や吉基や季良たち十四名は毎週、月、水、金の午後が担当だった。
 給食の時間が終わると、海底都市のはずれにある通路から息せき切って畑に急いだ。畑は沈没した潜水艦の船底にあり、父母の世代に苦労して造られたものだ。僕たちの棲む海底都市・洋浜市近くに沈んでいるのが発見され、沈没の原因は地上の災厄のせいではなく、もっと前の戦争らしかった。空気を送り込んで船底を畑に改造した話は、授業でもする。市からパイプ状の通路が繋げられていて、潜水服なしでも行くことができる。その頃にはまだそれだけの工事をする技術と資源が残されていたのだ。
 僕たちは金属パイプ通路の中を硬い足音を響かせながら、駆け抜けた。
 畑はまだ非常灯が幾つか生きていて、薄暗い中、ぼんやりとだけど辺り一面を見渡すことができた。半透明なゼリー状のものが、ずっと船底を埋め尽くしている。その上を薄く貴重な真水が覆っていた。真水は市の工場から直接、排水管で送られてきて、貴重なので使った量はノートに記録し、後で先生に報告する決まりになっていた。
 僕らは作業を手分けした。由衣の班はゼリーが減っている箇所を見て回って補充。そのための樽を背負って来ていた。吉基の班は黴が生えていないか点検し、見つけたら除去。季良の班は発酵菌を手際よく散布して、配水管の先のホースで表面を覆うように散水。ゼリーは海藻から煮出して作った糖分で出来ている。
「もういいと思う」由衣が言い、僕たちは撤収を開始する。独特のいい匂いのする発酵成分を吸っていると心地よくなるが、CO2が溜まっているので、長時間、滞在しない方がいい。「行くぞ」季良が合図する。
 
 僕は畑の仕事も一切、手を抜くこともなく、狩りの練習も一所懸命にやった。それでも結局、直人兄から本番に連れて行くと言われるまで、1か月半も掛かってしまった。
 二人で全く光のない暗黒の海底をいく。逸れないように直人兄とは手を繋いでいる。大きく不格好な機械のような潜水服で進むのは、これだけ練習しても骨が折れた。かつて充分に整備できていた頃は、バッテリー駆動で推進することもマニュピレーターで作業することもできたらしいけど、今は稼働しない。後付けで服の外部に取り付けた操作棒を自ら動かせて、梃の原理程度の原始的な仕掛けで動かせることはできた。一応、おもちゃのような人力で動くスクリューも取り付けてある。
 長い棒を手に僕と直人兄は、静寂と暗闇の中をゆっくりと進んだ。道筋を確認するために、時折、出していた発光苔も袋にしまうと、周囲は完全な闇になった。何も見えない。神経を研ぎ澄まして気配に注意するだけ。このあたりにはいないはずだが、十メートル近い獰猛な奈落ウナギに万が一、遭遇すれば、命の保障はない。
 じっと待った。時間の感覚がなくなる。このまま潜水服の空気タンクがなくなるのではと不安が押し寄せてきた。直人兄が隣にいるのがわかっているから、パニックにならなかったけど。
 じっと身じろぎもせず待った。底知れない闇の遥か先に小さな光が見えた。ちらちらと動いている。直人兄が、手を振って動きを伝えてきた。あれが獲物だという合図。もう一度、振られた。お前が挑戦するんだという鼓舞。
 可動式の腕を掻くように動かせて進む。光が近づいてくる。チョウチン鮫の方も捕食しようとしているのだ。ゆっくりと深海鰯を先につけた棒を光の方へ延ばす。チョウチン鮫は警戒しているのか、しばらく動かなかった。僕は待つ。光が動いた。僕はその一瞬を逃さず棒を引いた。つられるようにチョウチン鮫が追ってくる。僕は身を翻すと全速で後退した。スクリューも必死で回した。うまい具合にチョウチン鮫はそのまま追ってくる。僕は素早く体を反転させてやり過ごす。チョウチン鮫は勢い余って直進し、隠してあった水中の檻の中に突進した。檻の扉を閉じる。
 袋から発光苔を取り出し照らしてみる。やった、檻の中でチョウチン鮫が慌てた様子で泳ぎまわっていた。捕獲に成功した。顔のガラス面にごつんと直人兄が自分のガラス面をくっつけた。お互いの顔が覗き見える。直人兄は笑っていた。僕も自然と笑い返した。
 そのまま檻を押しながら、もう何に遠慮することもなく足で自由に海底を蹴って洋浜市に戻った。
 
 市の水域に戻ると、棒でチョウチン鮫を追い立てて、更に大型の檻に移した。そこにはチョウチン鮫が五十匹ほど入れられて遊弋していた。僕と直人兄は建物の中に戻った。海中から建物に入るには気閘室を通らなければいけないが、既に電動では稼働せず、二人掛かりで動かす歯車や滑車の仕掛けで代替していた。そうやって、劣化していく海底都市をなんとか維持してきたのだ。
「やったじゃない」やって来た母さんは顔を綻ばせていた。
 三人で近くの食堂で昼食を摂った。海層藻を固めて焼いた模造ハンバーグ。直人兄が僕の活躍をかなり盛って話をしたせいで、少しお尻がむず痒かった。
 昼食の後、直人兄の仲間の勇紀さんや将裕さんたちも合流して、次の作業に入った。僕もお手柄ということで特別に参加が許された。総勢二十人のメンバーで潜水服を装着して、気閘室から再び海底に出る。数名ごとに分かれて、あちこちに係留してあるチョウチン鮫の大型檻を移動させ、等間隔に整列させて再び固定した。潜水服に大量の発光苔をつけてあるので、仄暗い程度の光があって作業はやりやすかった。
 合図に従って、各檻に一斉に、桶から餌の深海鰯を隙間から放り込む。
 チョウチン鮫たちが捕食しようと、頭に細い管で吊り下げている発行体、提灯の由来を輝かせる。一匹あたり五つの提灯を持っているから、発光苔の弱々しい光より遥かに明るい。
 辺り一面が照らし出され、海底にたゆたう海層藻の緑の森が浮かび上がった。海層藻の畑は洋浜市の南側に沿って広がっている。かつては三千ヘクタールだったが、今では八千ヘクタールにまで拡大している。それも親世代の何十年もの地道な努力の成果だ。海底の有害物質を少しずつ除去しながら、海層藻が育つ土壌を広げてきたのだ。
 人間の背丈まで成長した海層藻は、緑の細い葉を四方に広げて海流にゆらゆらと揺れている。並べて植えられた緑の列が見渡す限り海の深淵の向こうまで続いていて、壮観な眺めだった。
 チョウチン鮫が充分に光を出しているのを確認すると、監視用員を残して僕たちは建物に戻った。また面倒な気閘室をくぐる。
 僕は畑に面した窓のところに走った。畑の様子は見飽きているけど、自分の捕獲したチョウチン鮫が畑を照らすのをこの眼で見たかった。廊下に面した分厚いガラス窓から外の様子を伺う。由衣や吉基もやって来て目を凝らしている。
「やったな、侑司。おめでとう」皆が口々に褒めてくれる。
「侑司、CO2」母さんの口調が少し厳しい。浮かれていてはいけない。「はい」
 僕は慌てて階段で一階に下り奥の部屋に入った。真ん中に大きなバルブがある。僕たちが世話をしているCO2畑から繋がるパイプのバルブだった。これを緩めると、CO2が、海底の畑に這うように埋め込んだ細い管を流れていくようになっている。赤ペンキでマークしてある位置まで回すと、僕は急いで皆のところに戻った。
 管には小さな穴が開けられていて、そこからCO2が小さな粒となって少しずつ漏れて出てくる。CO2はすぐに海水に溶け込んで、海層藻のてっぺんぐらいでほぼ消えてしまう。
 背後の廊下を人々がざわざわしながら通り過ぎ、切れ切れに話が聴こえてきた。
「とうとう溝南市からの連絡が途絶えたらしい」
「潮流市に続いてか。今年で四都市目じゃないか」
「ここもいつまで」そう口にした男性は、僕たち子供がいるのに気づいて口を閉ざした。
 僕たちは窓に顔をくっつけてじっと待った。
 やがて海層藻の繁茂した葉からぶくぶくと泡が出始めた。葉の表面に浮くように現れた泡は、大きくなると隣の泡と合体して、より大きな気泡となり、浮力を増してゆっくりと上に浮かんでいく。
「始まった」季良が興奮している。海層藻の細い葉からまるで逆向きの雨のように泡が立ち上っていく。と言っても本物の雨は見たことないんだけど。遠目には漆黒の海中に白い霞が掛かっているような神秘的な光景に目を奪われる。
 頭上に漏斗状の筒があって気泡を吸い込んでいく。筒を通って気泡はタンクに蓄えられ、僕たちが生きていく酸素となる。吸い込み切れなかった泡はそのまま上へ、海上へと昇っていった。
 チョウチン鮫の光とCO2。これもとに食糧源である海層藻は大きく育つ。海層藻がなければ僕たちはたちまち飢えてしまう。魚は食べられない。海溝深くに埋められたタンクから漏れ出した有害物質のせいだった。それどころか深海魚を異形にした危険な毒素は、長く作業に携わっている人間の体も蝕む。父さんはそれで三十代で亡くなった。
 僕の肩に手が置かれた。
「母さんがまだ子供で、地上に棲んでた頃は魚を水槽という容器で飼ってた。水草を育てるのは大変だった。光は電気があったけど、CO2はゼラチンと砂糖とイースト菌の手作り。そうやって光合成させたのよ」
 何も言わないのに、母さんが僕の心の中を見透かしたかのように言う。
「大丈夫。海底都市はまだまだ大丈夫。それに駄目になる前に海上に出ていく。畑を広げれば海水も浄化され、海を浄化すれば、地上の空気や大地も棲めるように無害化できるはず。死の石棺が戦争で破壊され地上が汚染される前のように」
 見上げると、こんな深海でも海の上にほんの微かに陽の光が見える。
「何世代もかかる。でもいつか我々は地上に戻る」

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