恋する者の肖像

信号が赤に変わった。彼は立ち止まる。その後、メガネを掛け紺色のスーツを着た男が彼のちょうど左側で立ち止まった。彼はゆっくりと首を左側へ向ける。一秒、二秒、三秒。三秒もかけて彼は左側を向いた。スーツの男はただ真っ直ぐ信号機を見つめている。男の右手はカバンを掴んでいる。彼の目線は男のカバンに付けられたストラップに向かっていた。彼はそのストラップに見覚えがあったのだろう。私は螺旋階段を登っている。白塗りされた階段は、上方にある窓から差し込む日光によって一層綺麗に見える。鉄でできた手すりは黒光りしており、階段とのコントラストが美しい。この階段を登っているのは私だけだ。ほとんど無音とも言えるほどの静寂の中で、私の足音だけが唯一ここにあるリズムだった。階段には終りがあることを私は知っていた。だが、その終わりには何があるのかを私は知らなかった。
合唱団が舞台に現れる。彼はピアノを弾くだろう。合唱団は彼の調べに合わせ、この物語を歌うだろう。
合唱団: 処は古都、運命の悪戯によって巡り合った二人は、運命の気まぐれによって死にいたる。愛おしくも儚い物語。委細はこれより五時間、舞台にて繰り広げられましょう。(退場)
彼はピアノを止め、退場する。物語が始まる。
 愛とは私達が持つことのできる唯一の物語だ。そこには始まりがあり、もちろん終わりもある。この世界において、愛以外のすべては円環構造だ。愛は私達の世界で唯一直線的なのである。
 信号は赤へ変わった。私は横断歩道に差し掛かる直前まで歩いて立ち止まる。背後から足音が近づいてくる。メガネの男に間違いない。私にはわかる。
反復?いや違う。
そもそも信号なんてないし、メガネの男なんていない。だが、男は私の左隣で止まるだろう。なぜならこの文章を書いているのは私だから。私は螺旋階段を歩いていないし、信号待ちなどしていない。私はただパソコンに向かい、文字を書いているだけだ。だが、『ただパソコンに向かい、文字を書いている』と記された私と本物の私は同一ではない。そもそも本物の私とはなんだ?本物の私は横断歩道で信号を待っているかもしれない。だとしたら、パソコンと向き合っているこの私は誰なのか。
螺旋階段を歩いている方の私は依然として歩みを止めず上り続けていた。信号はまだ赤のままだ。私は信号が青に変わることを信じて待つ。ピアノを引き終え、舞台から退場した彼は舞台裏で合唱団の女性のうちの四人と話し込んでいた。彼ら―というのは彼と合唱団のことだが―の仕事はもう終わった。彼らの仕事は舞台の始まりの数分間なのである。彼らは劇場の支配人に対しての不満を述べ始めた。彼は四人の中の一人である女と特に親しかった。夜を共にしたこともある。彼女は支配人に対しての不満を述べることなく―しかし、不満を感じていたが―黙って、みんなの話を聞いていた。信号は青に変わった。スーツを着た長身の男は歩きはじめる。しかし、彼は歩き出そうとはせず、ただ男のストラップを眺めていた。彼には見覚えのある羊のストラップを。あるいはそんなものに見覚えなどなかったかもしれない。だが間違いなくその羊のストラップは彼を惹き付ける何かを有していた。
触れ合う身体は熱く、彼女の肌をなぞる指先はなめらかに滑っていった。白く美しい体が描く曲線は完全に彼を魅了し、彼からそれを表現する言葉を剥奪した。仰向けの彼と上から彼に迫る彼女。彼の性器は彼女の腹部の肌と軽く触れ合い、ついには完全に触れ合った。彼は体内の鼓動を感じた。細胞たちがひしめき合うような感覚、彼はそんな感覚を初めて感じた。彼は自らの死を感じる。彼は既に彼自身から流れ出ていた。全ては神秘性に支配されている。彼女を抱きしめる両手は既に指の先まで欲望に浸っていたのだ。彼女の肌はまるで水の流れのように滑らかに滑り込んでいき、それでいて適度な肉感を残していた。一度両腕を離し、起き上がった彼女の胸を掴む。弾力のある乳房は果実のようで、やはり心地よい手触りをもっているが、しかし丁寧に扱わなければ消えてしまいそうな脆く儚いものでもあった。これらは彼によって思い出された記憶の断片である。彼によって何度も再生産され、観念化された官能。故に、全てが美しい。
 ああ、私はなぜかくも下手な文章を書くのだろうか。まるで、目隠しして絵を描かされている気分に近い。何もかもが不完全だ。そのもどかしさは私を殺すに十分である。言葉、お前は卑しいやつだよ。私は今、パソコンに向かい合って言葉を紡いでいる。《紡ぐ》とはまさにいい表現だ。私は何も作っていないのだから。私はただ借り物の言葉で糸を編んでいるに相違ない。結局、私は何も作れていない。ああ、自分の文章が憎い。
 螺旋階段を上っていた私は、依然として頂上を目指していた。なぜ私は上ることをやめないのだろうか。わからない。私の意志ではない。そこには抗えない力がある。
運命は叫ぶだろう。私を呼ぶために。もはや全ては物語なのだ。私の知らない間に、世界は直線的に広がっている。
舞台での仕事を終え、彼はバーにいた。バーテンダーと最も近いカウンター席、といっても店内は狭く、5つあるカウンター席の内のドアから一番遠いところ、L字に曲がった一番奥の席であった。彼はふと右手で左の胸ポケットを漁る。なぜ彼が胸ポケットを漁ったのか私にはわからない。だがそれが必然であったことは間違いない。胸ポケットの中に何か入っていた。右手でそれを握りしめ取り出す。開いてみる。開かれた右手にはサイコロが乗っていた。しかもサイコロの上部は赤い一つの点で『一』と示されていた。彼の目線はしばらく、この赤い点と見つめ合っていた。この赤い点は、彼に強い不快感を抱かせた。間違いなく、彼は恐怖している。彼はいち早く恐怖から逃れたかった。彼はサイコロを振る。サイコロは空中で数回転しながらも、全体としては美しい放物線を描いてバーのテーブルに向かって落下していく。赤い点は回転しているために赤い線に見える。青信号が点滅する。私は無理に横断歩道を渡ろうとはせず、ゆっくりと歩いていく。青信号は点滅している。賽の目に何が出るのか、彼は知らない。信号が赤に変わった。私は立ち止まる。
先程まで、彼が待っていた横断歩道にはもう誰もいなかった。車もなく人もいない。あるのは赤を示す信号機のみ。彼はどこに言ったのだろうか?なぜ彼はサラリーマンが持っていた羊のストラップに見覚えがあったのだろうか。どこからか、ピアノの音が聞こえてくる。彼が弾いているに違いない。彼女が好きな曲。
おそらく、私は熱にうなされている。でなければ、このような文章は書かないだろう。まるでパラノイアだ。私の頭の中でイメージが誘発され、一つのイメージがまた別のイメージを呼ぶ。熱にうなされている時、私の頭の中では、よく同じような事が起こる。まさに呪いだ。しかし、私は書き続ける。音楽はまだ続いている。
バーの一番奥のカウンターテーブルの上には飲みかけのカクテルとサイコロが一つおいてあった。ここからではサイコロの上面が見えず、サイコロの目が何を示しているかわからない。席には誰も座っていないようだ。聞き覚えのある音楽が流れている。彼が演奏しているのか?彼を探して視線を左右に動かす。薄暗く、狭い店内、彼は見つからない。もう一度左側に視線を向けた時、女と目が合う。彼女は両腕を組み、左肩を壁に凭れさせている。左足は壁際にまっすぐと伸び、右足は外側に開かれている。彼女は私に向かって微笑んだ。
言葉は私の肉であり、思考は私の血である。言葉と思考と私、これら3つは同一だ。私という思考は言葉に過ぎない。言葉がなくなれば私はいない。私は私から逃げ出したい。なのに、なおも私は文章を書き続けなければならないのか。私は音楽になりたい。
螺旋階段を登っていた私は死んでいた。階段の途中で、うつ伏せになって倒れている。私から流れる血はまだ新鮮で、美しかった。切り開かれた私の首から、血液は押し出され、流れ出る。血は純白の階段を赤に染める。私の死体を眺めているのは、彼女だった。彼女は手すりに持たれて腕を組み、階段の下の私を眺めている。彼女は私の死体から視線を外し、階段の上を眺める。頂上は見えない。この階段に終わりはあるのだろうか、と彼女は疑問に思う。頂上は必ずあると私は答えたかった。しかし、既に死に絶えた存在である私には不可能なことであった。私から流れる血液は脈を打ち、溶岩のように猛々しかった。
私の死は音楽に満ち溢れていた。
舞台の終盤。女は男を自分の膝の上に乗せている。男は既に死んでおり、彼女は泣いている。両手で握ったナイフの先は彼女の首を睨んでおり、あと少し動けば彼女の命は絶たれるだろう。彼女の瞳は何も写しておらず歪んでおり虚無だけを、或いは絶望だけを、そのような観念だけを眺めている。音楽が流れる。神が降りてくる。デウス・エクス・マキナ。神は舞いながら、回転しながら、ゆっくりと舞台に現れる。まだ神が完全に降りきらないうちに、舞台の幕が降りる。
草原で一匹の馬が草を食んでいる。もっと奥の丘の上には白い塊がうごめいている。羊の群れだろう。天気は快晴。のどかで落ち着く一時だ。私は草原に腰をかけ、彼女のことを考える。
 サイコロは回転している。地球と同様に自転と公転をしつつ空中を移動している。サイコロは緩やかに落下していく。だが、まだ何が出るのかわからない。
 神は降りてくる。悲劇の二人の元へと。舞台の幕は既に降りている。
 言葉が足りない。そのことについて私は嘆くしかない。私は彼女の美貌について語るすべを一切持たない。どのようにして彼女の美しさを示せばいいのか。『美しさ』この言葉されも気に入らない。こんなものは何ら真の『美しさ』を示さない。言葉というものはなんて憎らしいんだ。こいつが示すのは結局『それらしいもの』であって本物じゃない。
 彼女の美しさ。
 大理石から掘り出されたかのように、精巧に形作られた指先。雪のように白い手の甲は触れてしまえばなくなってしまいそうだ。肩まで伸びた黒髪。彼女はいつも髪を結び、ポニーテールにしている。馬は草を食みながら、不規則にその尻尾を揺らしていた。馬の強靭な筋肉は太陽の光に照らされて黒光りしている。丘に腰をかけ、それを眺めている彼は家からもってきたサンドイッチを頬張っていた。彼の視線は馬の尻尾に向けられているが、彼の意識は馬に向かっていなかった。彼は昨夜出会った女について考えている。また出会えるだろうか。彼はまだ彼女が後に彼と同じ職場―劇場―に来ることを知らない。今の彼はもう一度彼女に会えるかどうかを賭けなければならなかった。彼の意識が馬に戻った時、丘の上の羊たちはいなくなっていた。彼女の透明な瞳。まるでどこか遠い未来を見つめているような瞳。何からも汚されておらず、何者も汚し得ぬような純粋無垢な瞳の奥に眠る熱い精神。
 お望みとあらば私はいくらでも彼女のことについて語ろう。ただし、私は彼女の内面について語る言葉を一切持たない。
私は溺れかかっている。私は溺れそうになりながらも必死にもがきながら何度も抜け出そうと試みる。この泥沼はしつこく私に纏わりついて離さない。私の全身は既に泥沼に浸かっている。何度か顔を出す。もがいて、もがいて抜け出そうとする。私を助ける手段などもはやない。私は泥沼の中を生きるしかないのか。
 螺旋階段の途中で彼は死んでいた。彼の死体は階段の五段に差し掛かっており、右手を伸ばし、左手を胸に近づけた状態で死んでいた。私は彼の死体から流れる血を踏まぬように千鳥足で階段を登った。どこからか彼の弾くピアノの音が聞こえる。私はただひたすら上へと登っていく。神が降りてくる。舞いながら。オルゴールの上のバレリーナのように規則的な舞踏。私は舞っている。舞っているのは私だ。神は私だ。私は神だ。彼の音楽は鳴り止まない。それに合わせて、私は踊り続ける。既に私は書くことを止めていた。私は沼から抜け出していた。音楽と舞踏だけが私に恩寵を与えていたのだ。
 私は死んでいる。彼は死んでいる。彼女だけが唯一生きている。
 信号は点滅し、サイコロは回転し、私は踊っている。馬が走り去り、羊たちが寝静まっても、音楽は止まない。
 音楽が止む頃、サイコロの目は一を示し、私は踊ることをやめるだろう。せめてそれまでは、私は踊ることを絶やさない。
 私は沈黙する。
 


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