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サバティカルタイムで失ったモノ、得たモノ

仕事を辞め半年以上、自由な時間を過ごした。

自分の人生に疑問を持ち、近視眼的になってしまった自分を変える何かを探し求め、仕事からしばらくの間距離を置く時間が欲しかった。

「サバティカルタイム」という考えがある。
「使途を決めない休暇」のことと理解しており、半年前の自分が求めているものに、とても近いように感じていた。

忙しく責任ある仕事から離れ外界に引っ張られず、自分と向き合う時間をたっぷり取る。
そうすることで、今後の人生を生き抜くための教訓のような何かを得られると期待していた。

しかし、この期間を経て自分なりに考え至ったことは、結構に残酷で現実的なことだった。


忙しくて出来なかったこと、やりたかったことをなんでもできる。
退職前に思い描いていたのは、そんなところ。

在職中は「やりたいことが出来ないのは、忙しいせいだ」と思っていた。
そして「時間さえあれば、自分は自分らしく素晴らしい生き方ができる」と大きな期待を持っていた。

実際はどうか?

時間があっても、そこそこにしかやらない。(自分の熱意ってこんなもんだったのか?)

時間が出来てチャレンジすれば、たちまち成果が出るはずと思っていたことは、案外そんなに甘くはない。

忙しさを言い訳にして大事に取っておいた「すごい可能性を秘めた自分」に変身するはずだった。
蓋を開けてみれば、昨日から地続きの等身大で平凡な自分だった。

むしろ定職を無くし、そして思い描いていた可能性としての自分が「妄想」だったと知った。

自分は何も持っていないし、自分は何者でもない、と気付かされた。


サバティカルタイムと銘打ち、半年以上の時間と貯金を費やした事の顛末は「自分に対する盲信の喪失」だった。

そして残っているのは、相変わらず等身大の自分だけ。
盲信ではなく、現実世界での経験だけが手元にあるということ。

この「痛感」こそが、この期間で得た貴重な「経験」である。


頭で考えることは、時に信用ならない。
自分でも気づかないうちに巧妙に、自分の都合のいい思い込みを植え付ける。

長い期間をかけて慢性的に自分を慢心させ、本当に向き合うべき現実から遠ざける。

それは悪癖となり、不都合な現実から目を逸らしていることすら気付かなくなる。


僕は絶望した。
パンドラの箱を開けてしまった。
何でも出来る自分のイメージは幻想だったと知った。

そして最後に希望が残っているとしたら、それは「謙虚さ」だと思った。

ちっぽけに思える自分を認めて、それでも現実世界での小さな行動を積み重ねるしかない。


それでもやっぱり「音楽をやりたい」という気持ちは、どう考え直しても嘘ではないと思った。

だから、いつまでも自分の殻にこもってないで、曲をリリースした。

もちろん、期待しているような反応は全然得られない。
ボクの曲なんか聴きたい人なんて誰もいないんじゃないか?と思わずにいられない。

ただ、再生回数の少なさに拗ねてばかりじゃなくて、どうしたら聴いてもらえるようになるか?を考えることにした。

そして、カッコ悪くても継続することを決めた。
やっぱり自分の音楽を聴いてもらいたいという気持ちは、どれだけ疑っても変わらなかった。



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