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バチェロレッテと多面性。

昨年12月、私は恋愛リアリティ番組、バチェロレッテにはまっとった。バチェラーの男女逆転バージョン。

リアリティ番組っていうと、やらせやし茶番やしと思って避けててんけど、友達に勧められて観てみることにした。

結果、ドはまりした。自分がこれからどんな信念を持って、どんな人間として、どう生きていくんか。そんなことを考えさせられるとは思ってもみぃへんかった。こんなに深い人間ドラマやったとは。衝撃やった。

バチェロレッテの福田萌子さんは、確固たる自分像を持ってる、めっちゃかっこいい女性。「芯がある」とか「自分軸がある」っていうことを体現してる方やと思う。めちゃくちゃかっこいいし、憧れる。

でも、少し熱が冷めてきて、彼女がバチェロレッテで見せた生き方と、自分自身の生き方について考えてみると、ブレない自分軸に傾倒することの危うさを感じた。

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これは、バチェロレッテから離れて、私が自分自身について考えたことなので、福田萌子さんを否定するものでは断じてありません。私は彼女をリスペクトしています。バチェロレッテに出演していた萌子さんは、彼女を構成するほんの一部で、あれが彼女の全てだとは認識していません。以下は、彼女の一部から学び、考えたことであるということをご了承ください。

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私が感じた危うさとは、自分軸を定めることで、自分自身も、周囲の人間も縛ることになり得るっていうこと。

私は、自分軸とは、「いかなるときも譲れない信念であり、自分の行動に一貫性を生むもの」やと解釈している。

行動の指針となるから、異なる場面でも迷ったときの決断がしやすく、言動に一貫性が生まれる。言動が一貫してる人間っていうのは、信頼されやすい。

自分軸を確立することは、自分の人生を生きる上で大切なことやと思う。

でも、それに囚われすぎるのは怖いことやと思うのだ。以前も書いたが、人間は多面的な存在で、いつでも一貫性を求めすぎると人間らしさが失われるような気がしている。

自分軸に囚われて、「一貫性がなければならない」と思うことは、行き過ぎると自分の行動を縛ることになるし、さらには他者に一貫性がみられへんとき、切り捨てることにつながる。

自分にも、相手にも、一貫性を求めすぎて自由を失ってしまうんじゃなかろうか。

自分軸を立てて、目印として立てとく。そこを離れても、迷ったときにふと思い出していつでも帰ってこれるようにしとく。それぐらいのスタンスがちょうど良いんちゃうかな。

自分軸という十字架を背負って生きる必要はないんやと思う。

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