読書記_240214

書名:インド哲学10講 / 赤松明彦
題名:言葉と現象──バルトリハリの〈言葉=ブラフマン〉論

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 これは、岩波新書から出版されている、『インド哲学10講』(赤松明彦著)の読書レポです(以後この本を『10講』と表記します)。この本は一年くらい前に買ったまま自室の隅で積ん読の一部と化していたのですが、最近ひっぱり出してきました。数カ月前に、同じく岩波新書で出版されている『西洋哲学史』(熊野純彦著)を読み終わってなんとなく西洋哲学の大筋を辿ったところだったので、今度は東洋哲学を攻めてみようと思い手に取りました。

 この本は、『西洋哲学史』のように時系列順に哲学思想を見ていくというよりは、あるトピックに関連する各思想を章ごとに分けて述べる、という体をとっています。トピックは実体、認識、因果、生成、言葉など多岐にわたりますが、それらは「存在」を主題とした個々の考察として俯瞰することもできそうです。

 この読書レポでは、『10講』の内容に少し触れながら、自分の考えたことをとりとめもなく述べていこうと思います。

 インド哲学の概要を見るのはこの本が初めてだったので、ここでも簡単に記しておきます。インド哲学とは、私が思うに、『ヴェーダ』の注釈であると言えるでしょう(ホワイトヘッドが「(西洋)哲学はプラトンの注釈にすぎない」と述べたように)。ヴェーダは紀元前1200年頃から編纂され始めた文献集で、最古の『リグ・ヴェーダ』をはじめ、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』などが遺されています。ヴェーダの補助的な文献の一つに『ウパニシャッド』というものがあり、この文献の解釈をめぐってさまざまな思想が展開されていきます。ヴェーダの伝統を保持した学派(正当六学派)として、サーンキヤ派、ヨーガ派、ミーマーンサー派、ニヤーヤ派、ヴァイシェーシカ派、ヴェーダーンタ派が発生し、また反正統的な思想として、ローカーヤタ派、文法学派、ジャイナ教、ヒンドゥー教、あるいは仏教が生まれてきました。今回注目するバルハリトリという学者は文法学派に属します。文法学派は、サンスクリット語の文法規則を元にヴェーダの適切な解釈を目指した学派です。彼は『文章単語論』という書物を遺しています。このあたりの説明は『10講』の前書きの方に詳しく書かれています。

 他のインド哲学の思想家と同様に、バルハリトリもウパニシャッド思想の注釈を通して自説を展開します。そのため、バルハリトリの思想を見る前にウパニシャッドに見られる思想をかいつまんで見てみましょう。ウパニシャッドの文献としては『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』、あるいは『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』が挙げられます。中でも後者には、ウッダーラカ・アールニとその息子の対話篇によって記されている部分があります(プラトンの書物を思い出しますね)。その対話篇に登場する、「変容は、言葉による把捉であり、名づけである」というウッダーラカの言葉は、その解釈をめぐって以後絶え間ない議論の対象になりました。この言葉だけでは何のことか分からないので、もう少し知識を付け加えます。インド哲学においては、根源的一者を指す「ブラフマン」という言葉が頻出します。根源的一者(ブラフマン)とは、永遠不変で唯一無二の実在のことを指します。つまり、世界の物事は、全てブラフマンから現れ、ブラフマンを原理として動くのだと解されてきたのです。そんな唯一無二の実在としてブラフマンが置かれる一方、私たちの世界(現象界)を見回してみると、たくさんの個々の物体があります。ブラフマンのみが唯一の実体であるなら、この現象界に見える多様な個物は一体何なのでしょう。幻想でしょうか。ブラフマンと現象界について何らかの説明が必要であることが分かるでしょう。これは、いわば〈一対多〉、〈ブラフマン対現象界〉の問題と言えます。この(一応の)回答として、ウッダーラカは「言葉による把捉」という概念を用意します。現象界の諸事物はブラフマンの変容にすぎない。変容とは、名称と形態を表す「言葉」を与えることによって、ブラフマンが分節されることである。

 上の解説すら後世の解釈(と自分の謬見)を多分に反映していると考えられます。私はこの説明だけではわかる気がしません。この「言葉による把捉」とは結局どういうことなのか。各学派は自説を展開し、インド哲学思想を深化させていきます。その一例として、このレポではバルトリハリを扱おうと思いますが、文字数が多くなったので続きは後日に回そうと思います。

 余談ですが、ウパニシャッドの根本的な問いである〈一対多〉の問題って、形式的に同じような問いとして古代ギリシャでも考察の対象になっていませんか?一(アルケー)と多(現象界)の問いとして、古代ギリシャでもパルメニデスやデモクリトスが考察を広げていました。前者は背理法的な議論を用いて、多を「存在しない」と述べました。一方、後者は多は原子(一)の異なる配列の結合によって成るとし、原子論を唱えています。

 インド哲学の方も、例えばサーンキヤ派は多が三要素(グナ)の合成からなると述べていたり、シャンカラというヴェーダーンタ派に属する思想家は、多に分節するブラフマンと一のまま分節しないブラフマンの二種類の実在を認めることで、一と多の関係の説明を試みているようです。

(続きこちらです)

[インド哲学10講]


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