読書記_240216

書名:インド哲学10講 / 赤松明彦
題名:言葉と現象界──バルトリハリの〈言葉=ブラフマン〉論

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 これは、岩波新書から出版されている、『インド哲学10講』(赤松明彦著)の読書レポです(以後この本を『10講』と表記します)。前回に引き続き、この読書レポでは『10講』の内容に触れながら、自分の考えたことをとりとめもなく述べていこうと思います。

(前回のレポはこちら)

 前回はインド哲学史の流れを概観した後、ウパニシャッド思想の「言葉による把捉」を取り上げました。今回は表題の通り、文法学派のバルトリハリ(5世紀頃)の思想を見ながら、ブラフマンと現象、あるいは言葉の関係を考えてみたいと思います(『10講』の第8章で、詳しい説明がされています)。

 バルトリハリは主著『文章単語論』において、ウッダーラカのいう「言葉による把捉」について、独自の解釈を加えながら自説を展開します。世界を生み出し動かすブラフマンは根源的な「一」者である一方、私たちが五感を使って感得する身の回りの世界(現象界)は、あまりにも「多」くの個物に溢れています。そしてその諸事物にはそれぞれ名前という「言葉」が与えられていますね。例えば本、机、パソコン、ペットボトル、、。バルトリハリはこうした言葉たちが「常に不変の実体(=ブラフマン)を指示している」と考えます。一体どういうことでしょうか?「本」という言葉は、紛れもなく〈本〉のことを言い表しているのであって、「本」という時に〈ブラフマン〉のことを考えている人なんていませんよね?という疑問はあってしかるべきだと思います。一見意味不明なバルトリハリの主張を理解するために、『10講』では言葉の「指示」と「意味」の違いについて、説明しています。

 「明けの明星」と「宵の明星」という、二つの言葉があります。前者は明け方の東の空に見える星、後者は日没後の西の空に見える星のことを「意味」していますが、この2つはどちらも金星のことを「指示」していますね。このように言葉には「意味」と「指示」の側面があり、例のように意味内容に差異はあっても、指示内容は同一であることがあります。このような意味と指示の区別はドイツの哲学者フレーゲ(1848-1925)が詳しく議論しているようです。

 バルハリトリは、言葉の指示内容を「実体(ブラフマン)」に結び付けて考えます。つまり「(全ての)言葉は常にブラフマンを指示している」というのです。「本」も、「机」も、全部〈ブラフマン〉のことを指す言葉だというのです。その代わりにバルトリハリは、現象界の諸事物を、ブラフマンがある(偶有的)限定を受けて私たちに見える形になって現れた姿だと考え、言葉はこういったブラフマンのある「形相(偶有的属性)」をそれぞれ意味しているのだと考えました。つまり、〈本〉や〈机〉は現象界において、ブラフマンの多様な姿形の一つに過ぎないのです。言葉が指示しているのはブラフマンであり、意味しているのはブラフマンの一形相だというのが、バルトリハリの主張です。

 ここまでくると何だか宗教めいた話に感じます。この議論からさらに、バルトリハリは「言葉はブラフマンである」という大胆な主張を展開します。人間の声は、タイプ分けされ( 日本だと[か]とか[さ]とか )、規則に沿って配列される( [かさ]とか[さか]とか[さかさ]とか )ことで、言葉として有意味に区分されていきます。同じようにブラフマンも根源的で唯一の実体から、現象界の諸事物へ仮の形をとって区分されていきます。言葉=ブラフマンは、根源的一者でありながら区分を加えられることによって現象界の諸事物として現れるという訳です。言葉とブラフマンの類似を考えると、「言葉はブラフマンである」の意図を少し理解できるような気がします。

 この主張では、「言葉(=ブラフマン)が現象界の諸事物を現す」という帰結が生じませんか?非科学的に聞こえるかもしれない内容ですが、バルハリトリは躊躇せず是とします。言葉が事物に先立つ仕組みを、インド哲学では「付託」という言葉で説明しています。現象界の諸事物は、言葉と結びつけられて(=付託)はじめて現象しうる(=認識の対象になる)とバルトリハリは考えます。ここでは、実在においては言葉(=ブラフマン)のみだが、人間の認識上(現象界)では多くの事物が仮象している(≠存在している)という二重構造を読み取ることができると思います。

 言葉が全ての認識を形成するというバルトリハリの思想は、言語の関わる哲学においてもかなり(今なお)ラディカルなものであると感じます。西洋においても、言葉は認識と密接に関わっている旨の議論が多くされてきました。例えばアメリカの言語学者ウォーフ(1897-1941)が、言語(母語)が人の思考体系に影響を与えるという「(サピア・)ウォーフ仮説」を唱えたことは有名です。ただ私が知る限りでは、西洋における言葉と認識の思想は、あくまで言葉の差異=認識の差異というような、言葉が認識の内容に影響するというものにとどまっていて、バルハリトリのように言葉が根本的に認識そのものを作り上げるとまでは言っていないように思えます(知らないだけで西洋にもそういう主張はあるかもしれない)。その点でバルトリハリの思想は、個人的に興味深いものでした。

 さてここまで、『10講』の読書レポとして、言葉と認識の関係について書いてみました。レポにするレベルで深入りすると、とても難しい思想であることが分かりました。齟齬や過誤なく簡潔に書けているような気がしません。。〈言語=ブラフマン〉については、ここでいうブラフマンが根源的な「原理」を指すのか、あるいは根源的な「実体」をも指すのか分かりかねました。後者をもバルトリハリは是としているのでしょうか、、?『10講』では参考文献として『ことばの形而上学』(中村元)が挙げられていたので、余裕があれば読んでみたいです。今回の内容は『10講』の第1,8,9章に詳しく書かれています。他にも因果や生成、超越についても章立てて述べられておりかなり興味深いものでした。この章立て方式によって、インド哲学以外の哲学思想と比較しやすいようになっているのではないでしょうか。

今回の『10講』読書レポは以上です。ありがとうございました。

[インド哲学10講]

 

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