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刺青ルールどうやねん問題も、選択的夫婦別姓が通らないのも、変な校則うぜー問題も全部同根だよねという話

大阪市浪速区が誇る一流プロボクサー井岡一翔選手がJBCのルールを破って刺青丸出しで試合して賛否両論が巻き起こってますね。

ざっくりと雑にわけると

「刺青禁止ルール自体が時代遅れでバカらしい」派と

「ルールがおかしいならまず変えるのが先」派がいるようです。

刺青・タトゥーに対する私の個人的な印象を言わせてもらうと、ラグビー選手で散々見慣れてるので、スポーツ選手のタトゥーは全然気になりません。

普通やん、と。

でも、その一方で、刺青ルールが存在する理由もよくわかるし、今回のルール違反に対して怒る人が多いこともよく理解できます。

その上で結論を言うと、今回の井岡選手のルール違反行為は長い目で見たときに後から考えて「必要なことだった」となると思います。

社会性と偏見の親和性

「社会性」と「偏見」はセットみたいなもんです。

「社会性」は、その社会における主流の価値観を受け入れて少なくとも表面上は迎合できる能力と言っても差し支えないと思います。

実は、社会的動物である人間は、ある特定の価値観や明文化されていないルールを共有することで、日常的な生活を円滑にしています。

例えば、挨拶などのマナー、服装や髪型などの見た目は、その典型例です。

初対面の和風の容姿の人と会ったときのことを想像してみてください。

その人が最初に「こんにちは」とお辞儀をしてきた場合と

いきなり「どうもはじめまして」と握手を求めてきた場合とで

印象はだいぶ違いますよね。

(え?握手?なんで?)

ってなりませんか。

これが例えば、ヨーロッパ系の容姿の人だった場合はどうでしょう。

「Nice to meet you!」と握手を求めてきても、別に普通に受け入れますよね。

(ああ、はいはい、ナイストゥーミーチューからの握手ね。知ってる知ってる。)と。

逆に、「こんにちは」とお辞儀をしてきたらどうでしょう?

(お?日本文化が好きなのかな?)

と思いませんか。

これは純度100%の偏見ですが、人間が初めて会う人に対して、見た目からその行動を想定して臨んでいる証拠です。

見た目から、その人が話すであろう言語や、価値観、趣味趣向などを過去の経験や知識から類推して、できるだけ円滑に対応しようとしているんです。

社会生活において、文化や価値観を共有しているということは非常に重要です。

なぜなら、文化や価値観を共有していると実感したとき、その人のことを理解したように錯覚して安心するからです。

目の前にいる人が考えていることや、行動が予想できるという幻想が、安心感をもたらしてくれます。

逆に、文化や価値観を共有していないと思う相手が目の前にいると、緊張しますよね。

相手がどう思っているのか、次に何をしでかすのか全く予想ができないから不安になります。

なので、初対面の人との付き合いを円滑にするには、まずは自分が敵ではないことをアピールしなければなりません。

それが、相手に合わせた挨拶であり、適切な服装だったりするわけです。

社会性のある人はここをよくわきまえているし、社会性のない人はここができていません。

見た目で人を判断するなんてバカバカしいというのは簡単ですが、人はまず最初に見た目で判断するものなんです。

初対面でどういう格好で来て、どういう振る舞いをするのか、を見るだけでもどういう価値観の人なのか、自分をどれぐらい重視しているのかを予想することができるからです。

学校の校則なんかも、今となってはわけわからないルールのように見えても、そういう事情のもとに作られたのでしょう。

「偏見」と言うのは、社会的動物である人間の精神のかなり根本のところにある知恵であり、呪縛でもあります。

そういう観点で社会のできごとを見ていきましょうか。

選択的夫婦別姓制度導入でおきること

選択的夫婦別姓制度は「別姓にしたい人が別姓にできるようにするだけ」の話であって、同姓にしたい人は今まで通り同姓にすればいいだけだから反対する理由がない。

と思いますよね。

実はそうでもないということを私は知っています。

先に言っておくと、知った上で私は選択的夫婦別姓制度には賛成なんですけどね。

選択的夫婦別姓制度が導入されると、社会的にいくつか大きな変化が起きます。

一番大きな変化としてわかりやすいのは、結婚するときに姓をどうするのかという選択肢が増えることです。

選択肢は多ければ多い方がいいという人たちがいて、私もどちらかというとそっち側なんですが、実は選択肢があることは必ずしも幸せとは限らないんです。

だって、選ばないといけなくなるでしょう。

「選ぶ」ということは責任の所在が自分にあるということです。

人は、複数の選択肢から選べた方がうれしいこともあれば、面倒だから誰かに決めてほしいこともあるんです。

飲食店でも日替わり定食とか、シェフにお任せとかいうのがあるでしょう?

食べ物を複数の選択肢から選ぶのが好きな人もいれば、そこにいちいち思考力を使いたくない人もいます。

ましてや、結婚と言うのは2人でするものです。

2人ともが同姓を望むか、2人ともが別姓を望むならば何の問題も生じません。

でもそこで意見の相違が生じたら、どちらか一方が諦めて相手にあわせるか、結婚自体をあきらめるしかありません。

「根本的な価値観が違うのだから結婚しなければいい」という意見もあるかもしれません。

たしかに、両者がどうしても折れず結婚にいたらないのであれば「根本的な価値観が違う」と言えるのかもしれません。

しかし、どちらかが折れて結婚に至った場合は「根本的な価値観の相違」とは言わないまでも、折れた方が心の奥にしこりを残す可能性があります。

法律上、別姓にできないのであれば、それは法律のせいですが、法律で認められているのに話し合いの結果、別姓を諦めざるをえなかったとしたら、やはり不満が残りますよね。

多くの場合は「同姓にしたい」「別姓にしたい」よりも「どっちでもいいけどどちらかといえば同姓(あるいは別姓)」という人の方が多数派でしょう。

とりあえずそんなことでむやみにもめたくない。

いずれにせよ、「価値観を共有できている」という幻想にヒビをいれる可能性のあるものです。

シンプルに、自分の価値観と異なるものは不安になるので、見ないふりをしたいし、見えないところにしまっておいてほしいわけです。

あと1つ、反対派の人の意見で面白いな、たしかにそれはあるなと思ったのが

「これまでは苗字を見れば2人が結婚しているかどうか類推できたが、別姓が導入されるとわからなくなる」

というものです。

「どうでもいいわ」と思うかもしれませんが、これは意外と切り捨てられない観点です。

なぜかというと、そもそも「姓」というのは「どこの誰か」という出自を表す記号だったわけです。

日本の古い姓を見ても、「藤原(地名)」「蘇我(地名)」「物部(職業)」など、何者なのかを説明する役割を持っています。

英語圏の姓もそうですよね。

「Smith」とか「Gater」は職業だし、「Johnson」や「Johns」というのは親の名前、つまり出自を示すものです。

苗字を見れば、その人たちがファミリーかどうかを類推できるのは、ある程度便利なシステムです。

もちろん、こんなものは直接確認すれば解決する話で、慣れの問題なわけですが、今までできていたことができなくなるという点では面倒なことが少し増えるということです。

というわけで、「同姓を望む人にとっては今まで通り」というわけにはいきません。

結婚を望む全員にとって無関係のことではないわけです。

それを考慮した上で、それでも私は現状の様に女性側が一方的に不便を強いられている現行制度は変えるべきじゃないかなと思っています。

そのルールは何のためにあるのか

実は言いたいことがありすぎて話がかなりそれてしまいました。

すみません。

話を戻しましょう。

なぜ社会にルールが存在するのかというと、

「この社会はこういう価値観を重視しています」

ということを明文化するためです。

刺青ルールもそうです。

ルールがあるから刺青がダメなのではありません。

刺青に対する共通認識がそこにあったから、そういうルールができたんです。

あなただけが「ルールがおかしい」と思ったのであれば、それはあなたがその社会の価値観に適応できていないからです。

多くの人が「ルールがおかしい」と思ったのであれば、それは社会の価値観が変化してきているからです。

例えば、日本社会は長い間、「刺青=反社会的」という価値観を共有してきました。

日本の文化の中で育った人間にとっては、体に刺青・タトゥーを入れるということの心理的ハードルがかなり高い。

必然的に、日本人の中で刺青やタトゥーを入れている人は、主流の価値観を逸脱した人が多くなってしまい、結果的にアウトロー寄りの人たちの割合が多くなってしまうんですよね。

だから、「刺青=反社会的」という偏見はなかなか払しょくできない。

なので、ほとんどの一般人はますます刺青を入れようとは思わなくなるし、逆に反社会的な人ほど刺青を入れることを好みます。

結果として、刺青はアウトローの象徴になり、目立つ場所に刺青を入れているだけで「私は暴力は厭わないタイプの人間なのでよろしく」という名刺代わりにすらなります。

早い話がこれ純度100%の偏見なんですが、でも今の日本の現実です。

例えば刺青・タトゥーを入れている人が銭湯での入浴を断られたり、プールや海水浴場では刺青を隠すようなルールが設けられていたりしますが、これは「刺青を見せる行為は周囲を威嚇する」という現実があるからです。

だから私は「スポーツ選手の刺青・タトゥーは別に問題ない」と思いつつも、一般人の刺青に対してはまだ偏見を持っています。

日常生活の中で、例えばもしコンビニ店員さんとかで純和風の顔立ちの人が腕にガッツリ刺青を入れていたら、ギョッとします。

文化的背景としてタトゥー文化の国の人がタトゥーを入れてるのと、日本人が刺青を入れてるのとは、同列ではないですよね。

少なくとも現時点では。

格闘技と反社会的勢力の親和性

国際的な大会に出ているプロスポーツ選手のタトゥーは、たとえそれが日本人であっても少し状況が変わってきます。

プロサッカーの世界的な一流選手の中でもイブラヒモビッチやメッシやネイマールは体にバリバリタトゥーを入れています。

だから、例えばヨーロッパで活躍する日本人選手がタトゥーを入れていたとしても、一般人と比べるとそんなに違和感はないと思うんです。

でも、じゃあ世界戦を戦うプロボクサーも刺青入れてたってええやんとなるかというと、話はそんなに簡単ではない。

これは日本に根深く残る「刺青=反社会的」という文化に加えて、格闘技というスポーツと、アウトローな人たちとの親和性が理由です。

格闘技はもちろんストリートファイト(喧嘩)とは異なります。

定められたルールの中で己の磨いた技をぶつけ合う、立派なスポーツの1つです。

しかし、格闘技はその性質上、喧嘩に応用できてしまいます。

つまり、格闘技が強い人は喧嘩も強い。

いわゆる不良の人たちは格闘技に親しみますし、不良の中からプロの格闘家を目指す人もたくさんいます。

その結果、プロの格闘家の交友関係の中に反社会的勢力の人たちが紛れ込む可能性も一般スポーツ選手よりも高くなるし、事実として格闘技を引退した後に反社会的勢力との交友を深めちゃう人もいます。

少なくとも一般人はそういう偏見を持っていますよね。

なので、プロの格闘家は「我々は反社会的勢力とは一線を画する存在である」ということを明示しなければなりません。

その一つがJBCの刺青禁止ルールです。

「我々は健全なスポーツマンです」ということを示すため、反社会的勢力の象徴となってしまっている「刺青」は入れないと決めたのでしょう。

「外国人はOKで日本人はダメというのは一貫性が無い」

「そもそも多様性を大切にする今の社会情勢にそぐわない」

というのは正しいです。

「ルールがおかしいならまず変えるのが先」

とうのも正論です。

しかし、日本の一般社会に「刺青=反社会的」という偏見が根強い現状において、ボクシングの刺青禁止ルールを変更するという社会圧はかかりにくいという現状があると思います。

なので、井岡一翔選手のような注目度の高い一流選手が、あえてルールに抵触して問題提起することは、刺青やタトゥーについて社会全体で考えるきっかけになるし、言い方は悪いけれども「必要悪」なのではないかと思うわけです。

こういうことは実力が伴った選手がやらないと意味がないし、井岡一翔選手がその先陣を切ったという点について、私は日本社会にとって良いことだと思っています。

最後に

社会の価値観を先に変えないと、ルールは変わらないし、変わらないルールを皆が大人しく守っている状況では、価値観は変わりにくい。

日本の文化的価値観の中で育って、その社会の価値観に照らして概ね正しい振る舞いをする、純和風の見た目の一流選手がタトゥーを入れるということの社会的インパクトは大きい。

なので、これからの井岡一翔選手の振る舞いはとても重要だと思います。

彼がもし、アウトローな振る舞いで世間を賑わせてしまったら、すべてが台無しです。

がんばれ!井岡選手!

長々と書いてしまった・・・。

以上です。


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