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心訓

一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つことです。
一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事はすべてのものに愛情をもつ事です。
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です。
(作者不詳 ”心訓”)

たまに蕎麦屋さんなどの片隅に掲げられていたりする。福沢諭吉作と謳われていたりもするようだけれど、実際は作者不詳の作品のよう。

心訓の中には「正しい」とか「悪い」とかの基準はないし、どの一文が一番大切なのかも書かれてはいない。そのせいか、読む時々によって毎回注目する箇所が違う。読むときの自分のバロメータにもなっているようで、目に入るたびについ全文を読んでしまう。そして考えてしまう。

世の中で一番自由である事はどんな事なのだろう、と。

スナフキンなら何て言うだろう。「孤独が許されること」だろうか。アレントは何と考えるだろう。「人との対話の中にあるもの」だろうか。

考える人の数だけ、定義される自由の種類も広がるから、答えは決して一つではない。個人の数だけ自由の数がある。だからこそ、自由は社会全体で一丸となろうとする心訓の精神と抵触するのかもしれない。

だって、自由のために、「一番楽しく立派な事」を放棄する人がいるかもしれない。自由のために、「さびしい事」を選ぶ人がいるかもしれない。自由のために、「尊い事」をしない人がいるかもしれない。
(もちろん、自分の意志とは別に、心訓の行動を辿れない環境にある人だっていっぱいいるはず)

社会で生きて働くという営みの中には必ず他の人との摩擦や衝突があるはずなのに、なぜ心訓にはこんなに全体を守ろうとする優しい文章だけが連ねられるのだろう。どうして、個を大事にする自由について触れないのだろう。

他者の自由をみとめて、自分の自由もみとめられる。社会で生きるとは、自分とは違う存在や生き方をする人と、それでもなお共に生きるということなのではないのかしら。

心訓の描く世界は優しくて、ちょっと苦しい。(宮沢賢治や羽海野チカの作品に似ていて、憧れつつ遠ざかりつつ、したくなる)