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漫画『ハイキュー‼』

2020年11月5日にコミック版の最終巻45巻が発売されました。
遅ればせながら今年の春先に出会い、一気に漫画・アニメ・小説にはまり、何度も読みました。私にとって思い入れの深い作品となり、一度では語り切れないとは思いつつ、最終巻発売記念ということで、まずは作品全体を通して感じたことを記したいと思います。

本作は、古舘春一さんが2011年に読み切りを執筆され、その後2012年から2020年までの間にジャンプで毎週連載をされていました。

独りじゃだめだ、独りじゃ勝てない。
ふとしたきっかけでバレーボールに魅せられた少年、日向飛陽。
部員がいない逆風にも負けず、やっとの思いで出場した中学最初で最後の公式戦で、日向のチームは「コート上の王様」と異名を取る天才プレーヤー、影山飛雄に惨敗。
リベンジを近い烏野高校バレー部の門を叩いた日向だが、何とそこにはにっくきライバル、影山の姿が…!?
ボールを落としてはいけない、持ってもいけない、3度のボレーで攻撃へと"繋ぐ"スポーツ、バレーボール。だからこそ、少年たちはぶつかり合いながらもたった一つのボールを繋ぐ。繋いだ先に見える景色を目指して、少年たちはコートを駆ける!!

漫画『ハイキュー!!』集英社公式サイト ストーリー紹介より

(以下、ネタバレを含みます)

◆ボールを繋ぐ(独りじゃだめだ、独りじゃ勝てない)

中学時代、日向はバレー部員が集まらないなか、友人をかき集めて、自分が孤軍奮闘すればいいチームで試合をしていた。
影山も、「コート上の王様」と呼ばれたように、チームメンバーは自分に従うべきとのスタンスをとっていた。結果、セッターとして上げたボールを打ってもらえないというトラウマを生み出すことになる。
高校に入学後、影山は中学時代の先輩、及川との試合に臨んだ際、「サーブとブロックはあの人を“見て”覚えた」と言っているが、見たという表現から分かるように、先輩から直接教わるような関係にはなかったのだと思う。
(それにしても、日向=太陽、影山=影という名前からして陰陽絡む象徴的なネーミングセンスがすごい。作中、数多くの他校が出てくるのだが、各校試合に参加するメンバーは全員名前が付けられていることが個人を大事にする思想があるようで嬉しく、またそのネーミングセンスも面白い)

そんな日向・影山だからこそ、宮城の烏野高校で先輩を通して、ボールを繋ぐバレーボールにおけるチームワークとは何ぞやかを学んでいく姿は胸に響く。
入部当初、日向は試合が終わっても解散しないチームメンバーがいる喜びを、影山は先輩から教えてもらう喜びを噛みしめているように見える。
それを可能にする背景には、かつては強豪校の一つであった烏野高校が負け続け、そのような中で腐らずに全国大会を目指してきた先輩の執念が大きい。
烏野高校のバレーボールを強くするためならば、入学したての1年生もレギュラーとして戦わせる。先輩もボール出しや荷物運びもするし、無駄な上下関係はいらない。チームとしての信頼・結束力はしっかり育てつつも、勝つための実力主義は手放さないことが、烏野高校のチーム作りの根底にある。
(試合中、烏野高校の主将、澤村がやる気と武器はあるものの空回る影山・日向に向けて「俺にはド派手なプレーは無理だけど、土台なら作ってやれる。まぁ存分にやんなさいよ」とにっこり発するシーンに惚れ惚れする。チームは誰もがド派手な武器をもっているだけでは勝てず、全員が長所・短所を補い合って成果を出すからこそ勝ちに繋がるということを改めて感じさせられる)

だからこそ、影山と同じセッターである高校3年生の菅原は「"3年生なのに可哀想"って思われても、試合に出られるチャンスが増えるならなんでもいい」と、影山のレギュラー入りをコーチに進言できるのだろう。高校3年生、次の試合が最後の試合になるかもしれないという状況で、自分は試合に出ないという選択をとれるとは、自分の活躍でなくチームの躍進を遠く見据えることができているからに他ならず、それが出来る先輩・チームであることに私は深く感動をした。
(その菅原も、当初は影山とは同じポジションを獲り合う敵という構図を自覚していたが、試合を通して「今は後ろにお前(影山)が控えてる、すごく頼もしい」と気づくことになる。なんて心根!)

◆人を繋ぐ(「今日敗者の君たちよ、明日は何者になる?」「これからも何だってできる!!!」)

そんな烏野高校のチームは、多くの試合や合宿での敗北とチャレンジを重ねて、チームとしても個人としても成長をしていく。
強豪校であれば長年培ってきたコンセプト(コンビネーション、サーブ強化、個人の武器を磨くなど)を容易く捨てることは出来ないが、「烏は雑食」と喩えられる通り、烏野高校は勝つためならば既存の武器を捨て新しい武器に手を伸ばすことを躊躇わない。

そんな環境を得られたのも、烏野高校の監督、武田のひたむきな尽力により、途絶えていた他校との練習試合や合宿、予算・移動の確保が実ったことにある。春高最後の試合が終わった際、澤村が武田をして「ヤル気があるだけでは来られませんでした。長い練習試合の確保も強豪との練習試合も烏養さん(コーチ)も、先生がいなければ全部無かった」と言わしめたように、高校生のヤル気だけでは叶わないことを大人たちが支援する構造だ。
(烏野高校も音駒高校も公立高校である。私立高校であれば予算が潤沢で設備が整っていたり、吹奏楽・チアが強く応援団が結成されていたり、先生方による時には部活優遇といった環境もあるだろうが、公立高校はそうではない。その差を前提に高校を選ぶわけだが、全国大会という場で対等に戦っていることにわくわくする)

変わっていくのは、成長するのは烏野高校のメンバーだけではない。
中学時代、及川は同じくセッターである影山の天才的なスキルを前に焦り、拒絶を図った際、及川の幼馴染である岩泉から「バレーはコートに6人だべや!!6人で強い方が強いんだろうがボゲが!!」と叱咤され、その一言により自分が光るセッターになるのでなくチームメンバーを活かすセッターを目指すことになる。そして、それは及川が憧れていたアルゼンチン選手ホセのあり方であり、本来自分がありたかった姿へ岩泉が戻してくれるというきっかけだ。(たまに出る宮城弁がいい)
ちなみに、幼馴染という設定がいくつか出てくるが、音駒高校の黒尾と孤爪、井闥山学院の佐久早と古森※など、距離感は違えどその縁によりバレーボールを始める・続けるきかっけになっている。 ※従兄弟でもある

また、音駒高校の孤爪は幼馴染の黒尾と出会いバレーボールを始めるものの、楽しいかと問われると「別に」と返す程度のモチベーションでバレーボールを続けている。それを聞いた日向は孤爪に対して「悔しかったとか楽しかったとか、別に以外のこと言わせるからな!!」と宣言する。
幼少期の振り返りシーンを見ていると、孤爪はむしろバレーボールをするよりも、試合を見て分析することに楽しさを見出しているように思える。だからこそ、常に変化して分析しきれない日向と出会い、試合時に分析を超えるアクションを起こす日向と戦うことで、ついに孤爪は「たーのしー」と呟くことになる。それを聞いた日向、そして黒尾の満面の笑みたるや。

また高校生だけでなく、大人も変わる。
長年、春高の宮城代表校である白鳥沢学園の監督、鷲匠は身長が低いゆえに苦心した経験から、身体の小さな日向に対して「(監督として培った)俺の40年をかけて烏野10番(日向)を否定したい」「大きい身体が羨ましかった。でっかいってのは強くて格好いいじゃねえか」とのスタンスをとっていた。けれども、日向が身体は小さいながらもそれを不能の理由にはせず高みを目指す姿勢を見て、ついには「この長い40年より、あの頃(選手だった頃)の刹那の10年が叫び出す。俺にもできると叫び出す」と日向の活躍に小さくガッツポーズをとるようになる。

いくつになっても誰であっても変わることができるというのは、人間の魅力の一つだと思う。

◆過去から未来を繋ぐ(「才能は開花させるもの、センスは磨くもの」)

変わることができると言うと、あたかも今までの自分を全て捨てて生まれ変わるかのような印象を与えうるかもしれない。けれども『ハイキュー!!』において、変わることとは過去に積み上げで新たな武器・習慣を身に着けることである。

高校入学当初、日向は本能に従いボールに飛びつくようなプレーが主だった。それが先輩からの教えを得て、試合の中で相手の動きを予測して自ら考えながら動くようになり、時にコートの外にいても考え続けることで自分の糧が増えることを覚える。試合に出続けることが至上命題であった日向にとって、試合に出ない・コート内にいないということは価値がないと捉えていた時期から、試合に出ていなくても「コートの中には情報がいっぱいだ」ということに気づくことで、考える習慣とそれを武器にする機会を増やしたとも言える。
そうして積み重ねた成長のなか、晴れの全国大会という舞台で病気による途中退場を経験することで、スキルはあっても体調が伴わなければ試合に出るチャンスがないという学びも得る。日向は身体が小さいからこそ、数少ないチャンスを逃さぬよう、万全であることを自覚するのである。
それゆえに、高校卒業後、何でもできるようになりたいとブラジルでのビーチバレー修行に飛び立った日向は自炊もイメトレも続け、鷲匠のもとに一時いたブラジル人をして「無事が当たり前でないと知り、鍛え、補い、管理し、無事を習慣にする」生き様が、油断してはすぐ身体の内側が凍るような日本の冬を思い出させると表現されるほどに至る。

日向は、他の長身の選手のように体躯に恵まれるわけでもなく、影山のように小さい頃からバレーボールをする機会があったわけでもなく、及川のように挫けたときに傍にいてくれる幼馴染がいたわけでもない。それでも地道にしっかりと過去の学びを活かし、それを積み上げて自らを成長させている。

『ハイキュー!!』は個人的にとても刺さる言葉が多いのだが、中でも個人的にとても好きなのが、及川の発する「才能は開花させるもの、センスは磨くもの」である。
影山という天才を下級生に持ち、及川はバレーボールを続けるか悩んだとき、憧れの選手、ホセから「自分より優れた何かを持っている人間は生まれた時点で自分とは違い、それを覆す事などどんな工夫・努力・仲間を持ってしても不可能だと嘆くのは、全ての正しい努力を尽くしてからでも遅くない」という言葉を貰う。その言葉を胸に、及川は才能開花のチャンスを掴むのは今日か30年後かと呟きつつ、試合中、大きくボールがコート外にはじき出されボールを繋げることが難しい場面に、及川はボールを追い美しいトスをあげる。その時に心の中で及川が発するのがこのセリフだ。

誰もが才能を持っており、その開花が早く・無自覚であれば天才と呼ばれるが、たとえ開花は遅くとも正しい努力を尽くすことで誰でも成長を遂げることができる。
将来の成果が見えないなかで正しい努力を続けることこそ難しいが、それを着実に続ける人たち・続けなかった人たちが『ハイキュー!!』では描かれている。だからといって続けなかった人たちを責めるような苦しい世界ではなく、正しい努力を続けることで見える「頂の景色」がより美しく描かれており、正しい努力をする人を勇気づけているかのように見える。

◆人生は続く

本作は全45巻中、42巻の途中まで高校時代(日向・影山にとっては高校1年生の期間)が描かれており、42巻の途中から春高で共に戦った各校の選手が所属する実業団同士の対戦が描かれ、最後は日向・影山の加わるオリンピック日本代表がアルゼンチン代表となった及川と戦う流れをとる。(及川は高校卒業後、ホセを師事し単身アルゼンチンへ向かい帰化。最後の最後まで立ちはだかる壁である描き方が徹底されている)
実業団同士の対戦では、高校時代にバレーボールをしていた選手たちがそれぞれの進路を取り、何だってできる・何者にでもなれる姿が描かれる。そして、彼らは皆一様に満面の笑みで生きているのだ。

高校時代のバレーボールという青春は時限性がある。烏野高校のコーチ、烏養が言うように「あの場所あの時間にしか無い空気みたいな」ものが、青春にはある。
けれども、青春は終わっても人生は続くし、青春が終わっても楽しみは終わらない。大人だって楽しみがいっぱいある。
そしてその傍には青春時代を共にしたチームメンバーがいるかもしれないし、それを糧にしながらも新たな変化を作ることができるし、それはバレーボールを否定するのでなくそこで得たものを筋肉にして過去を活かすことになるのではないか。

漫画『ハイキュー!!』は、"繋ぐ"をキーワードに、どの世代でも、独りじゃだめだからチームがあって、人間は変われるものの、それは断絶した営みでなく、過去から未来に繋がる成長であることを、一貫してかつ丁寧に描かれているように感じた。