《木曜会:2月29日》
また雨が降る。会長のシュクゾウが退社するのを待つ、会長室の扉が開いているのでヒゲの男は扉の隙間からシュクゾウの様子を見る。帽子を取り、コートを着ようとモタモタしているので、そろそろ帰る頃だろうと考えてヒゲの男も帰宅準備をする。そして、タバコを吸いに行く。
もうそろそろ良いだろうと会長室をのぞき込むと、マフラーを巻きかけたシュクゾウがいる。一体全体とろとろと何をしているのかとヤキモキしたが、シュクゾウのマフラーは2年前、ヒゲの男と同僚のフジイさんが老人に贈ったものだったので、なんだか一気に腹が立たなくなった。90才、可愛くもある。
いや、可愛くはない。
ヒゲの男は会長が帰ったのを確認してそそくさと雨の中、北浜にある版画家の柿坂万作がいるコロマンサへ向かう。今日はそう木曜会の日なのだ。柿坂万作の店と書かないのは公平性を保つためで、堺筋の東側にある文化的コミュニティの人たちからは『柿坂万作が占拠している場所』というような見方に変わるようだ。
店のガラス戸の前を見ると傘立に傘が何本も突き刺さっている。「あれ?今日はこの天気なのに盛況なのだろうか」とヒゲの男は店内に入る。ガコっという音を立てて開いたガラス戸の向こうに見えたのは、白髪頭に筆を突き刺してちょんまげのように結っている版画家のみであった。傘は以前来店した客の置忘れが積み重なった結果らしい。
万作はアニメを観ていた。「あ~、もう15分くらいで(アニメは)終わりますよってに、もうちょっと辛抱してくださいよ」と万作はいう。アニメが終わりかけた頃、ドンドンと特徴的な音を立てながら階段を上ってくるものがある、ITコンサルタントの冷泉である。
出会った頃の冷泉は全身が真っ黒のスーツに樹脂で固めたような分厚い髪型をしていたが、いつしか気が付けばパンチパーマのようになっており、また気づけば髪の半分がなかったり変化が激しく、今は坊主頭になっている。もう髪型について考えるのが面倒くさくなったのだろう。共感する。
冷泉はヒゲの男の対面に座り、ウイスキーのショットと濃いめのハイボールを注文して、いそいそと巻きたばこを作り出しながら、その隣には黄色いアメリカンスピリッツの紙タバコを置いている。醤油ラーメンのおかずに味噌ラーメンを食べるというような珍妙な光景にヒゲの男はどこかコミカルさと刹那的な狂気を感じる。
冷泉のすぐ後、雨の中にも関わらず重そうな手提げ袋を抱えてやって来たのはファラオだった。冷泉を見た後にファラオを見ると、その体格の違いで自分とファラオとの距離を遠くに感じるような錯覚をすることがある。冷泉はChat GPTの魔改造がいかに面白くも大変なものかを語る。ヒゲの男とファラオはふんふんと話しを聞いている。
「阿守さんにちょっと聞いてみたいことがあるんですが」と万作が唐突に言い出す。ヒゲの男は「もちろん、どうぞ」と答える。
―ワシが思うに月が地球に落っこちて来んのは、これは月の重力が弱いからやのうて、月の回転運動に関係するもんであって、やから世間一般的に言われとる月の引力よりも遥かに巨大な引力を月は持っとって、月が地球の周りを回っとるんやなしに、地球の方が月の周囲を回っとると考えた方が合点がいくように思うんですー
まったくわからない。
今、改めて文章化するために昨夜の万作からの質問を脳内再生してみても、まったく意味がわからなかった。
「さすがですね、万作さん。ニュートンも同じことを考えたんですよ」とヒゲの男は適当なことを言い出す。取りあえず、先に正解を見せた方が話しがややこしくならずに良いと考えたヒゲの男は地球と月がどうして今の位置関係を保っているのかを万作の造形物である大きな竹細工の球体をモデルにして説明する。
この球体を地球だとして万作さんがボールを投げます。すると地面に落ちます、ボールに与える速度をもっともっと考えられないくらい強大にして投げたと仮定すると、いつしか投げたボールが地球を一周して地面に着地せずに円軌道でぐるぐると回るようになります。全てが釣り合っている状態が今で、月は地球に落ち続けているとも言えます。
ヒゲの男は万有引力の法則を説明し、自席に戻り落ち着いてウイスキーを飲みだす。この説明は自分の子供たちにもしたことがあり、感覚的に理解するにはもってこいなのだ。
「う~ん、地球の方が月を回っとるほうがワシの計算に合うんやけどな」
「えっ!?」とヒゲの男は驚いた。腑に落ちてへんやんと版画家のことが少々面倒臭くなる。その様子を見て冷泉とファラオはニヤニヤしだす。
「月は、年に3センチずつくらい、離れて、いってる、そうですね」と酩酊した冷泉が覚えたばかりの日本語のような感じで言葉を継ぐ。
「ワシもそれ聞いて、ははんと思ったんですわ」と万作は冷泉の話しをキッカケに論陣を張ろうという気風を見せてくる。
いやいや、年に数マイル単位で社会から離れていってる万作さんからすると、そんなの誤差じゃないですか。宇宙なんて大したことないやん。とヒゲの男は思ったのだが言葉にせず胸の内にしまっておくことにした。
映像ディレクターのタケちゃんが良いタイミングでやってくる。冷泉はすかさず「ファラオ、なんかゲーム出そや、はよ」と脅迫じみた問いかけをする。ファラオはそそくさと大袈裟な手提げ袋をまさぐり、ゲームの箱を取り出していた。
月と地球の関係についての話しはそこで鋭意中断された。
「お、さっそくゲームやってるじゃないですか」と店に入ってきたのはWEBディレクターのアラタメ堂のご主人だった。アラタメ堂のご主人は自身で購入した高価なウイスキーを万作に提供する。仕入れの金がない万作のために自身で飲みたいウイスキーを好意で持ってきて、それを飲むのにアラタメ堂が万作へさらに金を払うという非常に稀有で歪な商売の光景がここでは見られる。
ファラオが取り出したゲームは『GUESS CLUB』というものであった。
「最初のお題はおにぎりの具にしましょう」とファラオは言う。
ヒゲの男、冷泉、アラタメ堂、タケちゃん、ファラオに万作がおにぎりの具を与えられたホワイトプレートに書いていく。梅干しとか昆布とか高菜とか明太子とか書き、誰と誰が一致した回答があるのかと検証していくがそこまで面白くない。
「お題がどうも貧弱だね。次は僕がお題を考えるので、それについて皆が回答して欲しい」とヒゲの男は言いだす。
「えっ!となるってことは違和感があるということですよね」アラタメ堂のご主人がお題を再確認する。
「なんでここなんやろうとか、マッチングアプリならではのダマされてるんかなという感じが入ってる絶妙なところで、他の回答者も選びそうな場所やね」とタケちゃんもお題を再確認する。
1番:ファラオ 『長田駅』
全員がファラオのその絶妙なチョイスに舌を巻き、そして爆笑した。
「長田駅から先に行くと近鉄の初乗り料金がかかるので長田駅どまりで待ち合わせをするというのが肝ですね」とファラオは得意そうに選考理由を述べる。他のパネラーたちで長田駅を提示したものがいなかったため、ファラオは0点ではあるが、あまりに面白かったので『冷泉名誉賞』が贈られた。
2番:冷泉 『恵美須町駅』
冷泉のこの回答はアラタメ堂の回答の1つと合致したため、冷泉はポイントを獲得することとなった。
3番:ヒゲの男(私) 『中ふ頭駅』
「誰がこんなところで会うんですか、それに中ふ頭駅は大阪市営地下鉄じゃなくてニュートラムですよ」とアラタメ堂のご主人からの物言いをキッカケに他のパネラーから審議が要求される。その結果、記録なしということになってしまった。ヒゲの男にしては手痛い失態である。
4番:タケちゃん 『千里中央駅』
「いきなり一緒に住もう的な感じがあるから、えっと思うかも知れんね」とタケちゃんは自身の回答を理由付けして開示してくれるが、ファラオから待ったが入る。
「千中は北大阪急行なので、アモさんと同じで大阪地下鉄には入らないですよね」とファラオの鋭い視線がタケちゃんに飛ぶ。「あれ?御堂筋線の終点やなかったっけ?」とタケちゃんは言うが、「御堂筋の終点は江坂駅までですよ」と完全にファラオに論破されてここで終了となる。
5番:アラタメ堂 『井高野駅』
「バスの車庫としてしか出てこない地名じゃないですか、ここで待ち合わせは怪し過ぎますよ!」とヒゲの男はしてやられたという顔をする。「赤字路線ですよ」とアラタメ堂のご主人は自身の回答に満足そうだ。
げらげらと笑い合ったが、「自分の回答が互いに誰かと一致することがポイントになる」であることがゲームの主旨であったのに対して、いつしかただの大喜利になっていたことには、一同の誰しもが口をつぐんだ。
「そしたら、殴り合いしましょか」と冷泉が言い出し、夜の雨は日付けをまたごうとしていた。やっぱり地球はしっかりと回っているのだろうと思う。
次回の木曜会は3月6日の開催です。是非、お越しください。
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