表紙

FIRST BABY STEPS

 穏やかな朝だった。

 柔らかな朝日が町をふんわりと照らし、たわわに実ったような桜の枝が、融けた雪を思い出させるようにハラリハラリと落ちる。
 そんな風情には目もくれず、人々は右に左に行き交って、各々の情景に溶け込んでいった。
 マンデリンのコクと、そんな正面玄関の様子を楽しむ。なんと贅沢な時間か。早起きは三文の徳とはよく言ったものである。

 ふと、情景の中にいた一人の少女が、風情の中に立ち止まった。我が社の正門前で手元のスマホと正門を見比べる。
「来た来た」
 少女と形容したが、彼女は言動も顔つきも年齢も、立派なレディだ。
 だが、こうして遠目から見ると、155㎝の小柄な身体とリュックサックの組み合わせが、彼女の外見年齢をグッと下げている。
 
 しばし呆然と我が社屋を眺めていたが、やがて彼女は意を決したように正門を抜ける。警備員さんの呼び止めもないあたり、もうオーラは充分!と言ったところだろうか。
「さて、迎えに行かなきゃね」
 絶好の気分転換スポットとして先輩から教えてもらった眺望に別れを告げ、俺は階下を目指した。

🐕 🐕 🐕

 ビックリした。
 これで三度目のビックリだ。
「なんでこんなご立派に造っちゃったの……」
 芸能プロダクションと言うよりは、迎賓館のような佇まいの事務所を見て、アタシは思わずリュックを落としそうになった。
 あの人に出会ってからビックリさせられっぱなしだ。

 最初のビックリは、つい3日前のことだ。
 いつも通りストリートで踊っていたアタシの前に、その人はいきなり現れて声をかけてきた。
 最初はナンパかと思ったけど、その人は真っ直ぐアタシの目を見て、「ダンスしないの?」って訊いてきた。「見せて」って。
 すごく嬉しかった。アタシのダンスを見に来てくれたんだって、純粋に信じられたから。
 でも同時に、アタシはその場で踊るしかないんだって現実の方が息苦しくて、もどかしくって。
 気づいたら、そんな胸の内を洗いざらい話していた。

「ステージに立ちたい?」

 一瞬、なんでそんなことを訊くんだろうって思った。
 だってそうだよ。
 スーツを着た普通のサラリーマンみたいな男の人がそんなことを訊いてくるなんて、予想出来ないでしょ?
 そしたらその人はたった一言、「ついてきて」って。
 今思えば、かなり不用心だったとは思うけど、アタシはその人についていった。
 なんでかな?信じられたんだ、その人のこと。

 そこは、小さいけど立派なステージだった。
 みすぼらしいってけなす人もいるだろう、ショボいってバカにする人もいるだろう。
 けど、道端で踊っていたアタシからすれば、まぶしいスポットライトのあたる憧れの場所だった。
 ああ、やっぱりアタシはあそこに立ちたいなあ。って素直に思った。
 埃が舞う路上じゃなくて、アタシが踊るステージにいたいって。
 見てくれる人が欲しいって。思ったんだ。

「こんなアタシでも……立てるかな?」

 うん。自覚はある。アタシ、昔から隠し事がヘタだった。
 でもその人は、アタシのことを笑いもせず、名刺を差し出してこう続けたの。

「立つだけでいいの?」

 名刺には、アタシでも知っている芸能事務所の名前と、その人の名前が書いてあった。役職は。
「アシスタントマネージャー」
「ああ、実はまだ名刺が変えられてないんだけどさ。俺、明日からプロデューサーになるんだ」
「プロデューサー」
「そう。それでね、俺主導で新しいアイドルプロジェクトを立ち上げることになってるんだ」
「そ、そうなんですか……」
 自然と敬語になっている自分が、ちょっと情けない。

「うん。アイドル、なってみない?」

 二度目のビックリは、こうして訪れた。
 その人は、スーツを着た普通のサラリーマンなんかじゃなかった。
「どうかな?」
 その人が、手を差し出す。
 アタシは身体に電気が走るのを感じて、顔を上げた。その人の向こうに、ステージが輝いている。
 アタシの視線に気づいたのか、その人もまたステージを振り返った。

「よし、じゃあこうしよう」

 突然、その人はカバンを置いてステージに走り出す。
 彼は加速する勢いそのままに跳躍して、ステージの上にヒラリと着地した。
 キラキラ光る瞳でフロアを見回して、その人は楽しそうに笑う。
「おー本当だ。端から端までよく見える」
 「あー」と音の反響を楽しんでから、その人はさっきみたいにアタシに手を差し出した。
「やってくれるなら、ここに登ってきて!」
 自信満々の顔が、アタシに真っ直ぐ向けられる。
 アタシは、自然とステージに歩み寄り、その光に手を伸ばしていた。
「気をつけて……よっ!はい、後ろ振り向いてごらん」
 力強く引き寄せられて、その人の指さす方に目を向ける。
 小さいけど、狭いけど、そこにはアタシが魅せられる場所があった。
「うん。じゃあこれで決まり!俺はP、これからよろしくね。」
「アタシは水木聖來。これからよろしくね。Pさん」
 こうして、アタシはアイドルになることになった。

🐕 🐕 🐕

「や、水木さんおはよう」
「お、おはようございますPさん!」
 三度目のビックリに気圧されて、自分でも驚くほど大きな声であいさつしてしまった。
「むっ、実によいあいさつでありますな!」
「亜紀さんやめてやってくれ。あれアタシもやったけど、結構恥ずかしいんだからよ」
「なにを言いますかアヤ、あいさつは軍隊の基本!最も大事なことですぞ!」
 余計に恥ずかしくなるからやめて下さいお願いします。
 周りの人たちの視線と総合受付のお姉さんのクスクス笑いを感じる。は、恥ずかしい。
「そう固くならないで、昨日はよく休めた?」
「……すみません。はい、あの、休めました」
「オッケ。はいコレ、見えるとこに着けてくれるかな?」
 Pさんから渡された研修生と書かれたバッジを襟元に着けると、「じゃあ行こうか」とPさんが歩き出す。
 いたたまれない気分で必死についていく道すがら、Pさんは積極的に水を向けてくれた。
「ウチの会社、デカくてびっくりしたでしょ?」
「はい。正直緊張してます」
「俺も初日はそうだったよ。でも大丈夫、3日で慣れるさ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。さて、今日やることを一応確認しておくよ。一昨日話したように、今日は契約書類にサインしてもらったり、これからデビューまでの養成プランを組むための簡単なフィジカルチェックを受けてもらうね。ジャージと室内履き、持ってきた?」
「持ってきました」
「もし新規で買った物があったら、一昨日も言ったけど領収書ちょうだいね。経費で落ちるから」
「大丈夫です。元から結構持ってましたから」
「そっか。じゃあ、ちゃちゃっと書類片づけて、ダンスの腕前をガツンとトレーナーさんに見せつけてやって」
「はい。が、頑張ります!」
「ああそれと、敬語じゃなくていいよ。話し易いように話して。長いつき合いになるんだからさ」
 普段から優しいPさんの口調がもう一段優しくなった。

「さあ着いた。今日からここがキミのもう一つのホームだ」

《ジュエリークール 5課 プロジェクトルーム》と書かれたプレートを撫で、Pさんは扉を開ける。
 シックなデスクやソファが並ぶ部屋に、目に鮮やかな蛍光緑の服を着た女性がちょこんと座っていた。
 一瞬、観葉植物かと思ったのは秘密だ。
「おはようございますPさん。と、水木聖來さんですね?こんにちは。私、アシスタントの千川ちひろと申します。よろしくお願いしますね」
「すみません。お待たせしちゃったみたいですね。水木さん、ちひろさんの向かいに座ってもらっていい?」

 Pさんとちひろさんから契約内容や会社規約の説明を受けて、契約書にサインして、アタシはちょっとグッタリしてきた。
「よし、これで型苦しい話はお終いだ。お疲れ様。ちょっと休憩しておいで。ちひろさん。書類は俺の方から部長に上げておきますんで、カフェテラスでゆっくりして来てください」
「いいんですか?ありがとうございます!ではお言葉に甘えて行きましょうか、水木さん♪」
「はい」
 明らかに上機嫌になったちひろさんについていくアタシを、Pさんは手を振って送り出してくれた。

🐕 🐕 🐕

 カフェテラスは華やかで、アイドルなのだろう女性客でいっぱいだった。
 ちひろさんに勧められたプディングとホットティーのストレートを口に運んで、また驚く。
「美味しい」
「そうでしょう?お菓子作りの得意なアイドルがいまして、その子がプロデュースしてるんですよ!」
 なんだか驚かされっ放しだ。
 この事務所、アイドルたちの才能も活かし方も縦横無尽すぎる。

「あっちひろさんだ!珍しいね、こんな時間にここに来るなんて、まさかサボりかな~?」

 突然、一人の女の子がちひろさんに話しかけてきた。
 オレンジがかった二つに結んだ髪が、活発な印象を与える子だ。
「い、伊吹ちゃん!?違いますよ!?5課のPさんに言われて、こちらの水木さんと少し休憩してるだけですよ!」
 その子を見た途端、アタシは彼女が同類だってわかった。
 多分、向こうもアタシが立ち上がっていればわかったはずだ。
 バウンスの基本。膝と股関節の屈折に慣れた柔らかな立ち姿は、ストリートのダンサー同士が互いを認識する、無意識のIDだ。
「水木聖來です。ジュエリークール部門の5課に今日から所属します。よろしくお願いします」
「アタシ小松伊吹。サニーパッション部門の3課所属だよ。得意なのは」

「ダンス、だよね。立ち方でわかる」

 初めて、アタシから驚かせられた。
 目を丸くした伊吹は、「ちょっとゴメンね」とアタシの腕を握って確認して、頷く。
「そっか、聖來さんもダンサーなんだね」
「セイラでいいよ」
「ありがと、じゃあアタシのことも伊吹って呼んでね」
 正直、この時ほどはっきりと景色が開けた瞬間はなかった。
 アタシはお菓子作りが得意なわけでも、軍隊の基本がなっているわけでもない。
 アタシには、ダンスだけ。出来ることなんて、本当にそれだけだ。
 でも、同じダンスを持ち味にしている子が、堂々とアイドル活動をしている。
 こんなに嬉しいことはないし、燃えることもない。
「今度ダンス見せてね、聖來」
「伊吹のもね」

🐕 🐕 🐕

「はじめまして。私はトレーナーの青木聖だ。今日はレッスンプランを組むため、キミの現状を確認させてもらう」
「よろしくお願いします!」
「うむ、いい返事だ。P君、キミも立ち会うんだろ?」
「もちろん、俺の連れて来たアイドルですから」
 ちひろさんと別れ、Pさんに連れられて来たレッスンルームで、アタシは拳を固く握りしめる。
 カフェテラスで伊吹と会ったことで、アタシの中にスカウトされた日と同じワクワク感が戻ってきていた。
 今なら、アタシはいくらでもどこまでも跳べる!
 そのためにも、アイドルの世界でアタシのダンスがどこまで通用するのか、まずはしっかりと見てもらわなきゃ!

「ではさっそくだが歌唱力の確認から……どうした?」

 ああ、そうだった。
 アタシはダンサーじゃなくてアイドルになったんだ。
 アイドルはダンスだけじゃない。歌も歌う。
 でも、どうしよう。
 カラオケなんて最近行ってないよ。
「あの、聖さん。申しわけないんですが、ダンスから見てもらっていいですか?」
 Pさんがフォローを入れてくれたお陰で、なんとかダンスの確認からになった。
 けれどアタシの頭は、どうやって歌唱力を乗り切るかでいっぱいだった。

🐕 🐕 🐕

「どうですか?水木さんは」
 ダンス力、歌唱力、表現力のチェック終え、俺は聖さんにお伺いを立ててみた。水木さんは着替えに行っているので、率直な意見が聞けることだろう。

「うん。キミの言っていた通り、ダンスのレベルは相当なものだ。サニーパッションの小松にも引けを取らない」

 有り難きお言葉を賜った。
 ベテラントレーナーの異名を持つ聖さんのチェックは、弊社所属のアイドルたちの輝かしいデビュー史からも信頼出来る。
 なにより、小松伊吹は俺の師匠とも言うべきPさんの課に所属している人気アイドルだ。
 俺の目も、少しは信用していいようだ。

「表現力についても、ダンスを磨いてきた結果だろう。高水準に持っていけていると思う」

 いい評価が続いている。俺の見込みと相違ない。水木さんは目が印象的な美人なので、表情変化がはっきり見て取れるのは強みだ。
 問題は次だ。

「だが、歌唱力には難ありだな。率直に言って改善は必須だ」
「そうですね。俺もそう思います」

 個人的には自分の目に自信がついたが、アイドル水木聖來のデビューには、喫緊の問題だ。
 水木さんも自信がないのか、パフォーマンスもおっかなびっくりといった具合だった。
「音は取れているが、発声は素人もいいところだ。いくらダンスが上手くとも、アレではダンスで歌がぶれる。鍛え直さなければなるまい」
「なるほど。課題は歌唱技術ってことですね」
 しかし、これは僥倖だ。
 感覚的な問題の改善は難しいが、技術ならば習得すれば済む話だ。
「ちなみに彼女は歌についてはなにか言っていたか?」
「いえ、歌についてはまるっきり話題に上がりませんでしたね」
「そうか。そうなると、ある程度レッスンを集中させるしかないな」
「それなんですが」
 タイミングよく、レッスンルームの扉が開いた。
「いいタイミングだ。水木さんもこっちに来て一緒に聞いてくれる?」
「はい」

「合宿……ですか」
「なるほど。確かに合宿ならば短期間で集中的に技術習得が可能だな」
「はい。水木さんはストリートで踊っていた時間が長いので、舞台を数多く踏んで人一倍トライ&エラーを積んでいくスタイルが向いている気がするんです。だから、ステージデビューは無理のない程度で出来るだけ早めて、オリジナル曲でのデビューに備えたいと考えています」
「なるほどな」
 聖さんと共に、水木さんも首肯した。
「アタシも、ライブをたくさんさせてもらえるのはありがたいです。」
 だが、すぐに首を傾げて「けど」と言葉を濁す。
「けど?」
 歯切れの悪さが気になって、俺は突っ込んでみた。
 
「あの、実はアタシ、わんこ、イヌを飼ってまして、合宿はちょっと難しいです」

 ―なんてこった。
「ふむ。ご家族に世話を頼めないのか?」
「独り暮らしなんです」
「ご実家は?」
「父がイヌアレルギーでして、受け入れてくれるかは微妙なんです」
「そうか。確かにそれでは合宿は難しいな。ペットホテルなどが利用出来ればあるいは……どうするかねP君……P君?」
 まずい。うっかり黙り込んでしまっていた。
「しかたないですね。別案を考えておきます」
「……Pさん?」
「水木さん、今日はお疲れ様。色々初めてで緊張しただろうから、ゆっくり休んでね」
「おい、P君。突然どうした?」
「どうもしませんよ。別案、持ってきますね」
 とにかく今はここを出たい。
 変に追及されれば、溢れてくる。
 それだけはしたくない。

🐕 🐕 🐕

「なんだあれは?」
 聖さんと眉をひそめてPさんの背中を見送って、アタシは気づいた。
「もしかして、アタシなにかまずいこと言っちゃいましたかね?」
「わからん。が、まあいい。水木さん、自覚もあるだろうが、キミにはしばらくヴォーカルレッスンに励んでもらうぞ。ダンスと表現力については申し分ないが、歌も歌えてこそのアイドルだからな」
「はい!わかりました!よろしくお願いします」

 アタシがやるべきことははっきりした。
 まるっきり自信のない歌の練習。
 まずはそこからだ。
 今日は、それがわかっただけでも収穫だろう。
「よおし、明日からも……明日はなにするんだろう?」
 更衣室の前について、まだ明日以降の予定を聞いていないことに気づいた。
 どうやら、Pさんにもう一度会う必要がありそうだ。
 でも―
「さっきはどうしたんだろう」
 急に突き放すような態度になったPさんのことが、気にかかる。

「きゃっ!」

 少しだけモヤモヤする胸を開放したくて、勢いよく引いた更衣室の扉から声がして、アタシはたたらを踏んだ。
「す、すみません」
「いえ、私の方こそすみません」
 尻餅をついていたその人に手を貸す。
 綺麗な人だった。
 同性のアタシでさえハッとしてしまうほど、儚げで、それでいてとても優しそうな、温かな雰囲気に満ち満ちている。
「ケガしてませんか?」
「ええ、大丈夫で……あら?もしかして、5課の……確か、水木さん、ですか?」
「はい。水木聖來です。今日からジュエリークール5課にお世話になってます。と、いうことは、別の課の?」

「はい、4課の三船美優といいます」

 そういって美優さんが笑った途端、外の春風が部屋に吹き込んだように感じた。こんなにも柔らかくて温かい笑顔を毎日見られるなんて、4課の人たちは幸せ者だ。
「やっぱり水木さんでしたか。昨日貴女のPさんが『いい新人が入ります』って喜んでおられたので、一度ご挨拶したかったんです。どうぞよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願いします。ありがとうございます。憶えていただいて」
 アタシの言葉に、美優さんはハッとした。
「あの、すみません。前職のクセというか、名前を覚えるのだけは早いんです。別にその、目をつけているとか、そういった意味では……あああ」
 キョトンとするアタシを見て、美優さんは恥ずかしそうに手で顔を覆う。なんだか忙しそうなので、まずはベンチで落ち着いてもらうことにした。

「大丈夫ですか?」
「はい……すみません、取り乱してしまって」
 落ち着いて話を聞いてみると、美優さんは以前、ある会社でOLをしていたそうで、社員の人の話に出てくる人名は、自然と憶えてしまうのだという。
「そういう情報を拾っておかなかったせいで、皆さんに迷惑をかけてしまうことも多かったので」
「そうだったんですか……」
「きっと私が弱いからです。いろんな人に迷惑をかけたりもしましたし、そういう世界になんだか疲れてしまって……だから、Pさんに勧誘された時、なにかが変わればって、思ったんです」
 どうしても自己評価を低く見積もってしまうのだろう。
 気持ちはわかる。
 アタシにも、そういうところあるし。
 でも、少なくとも今の話を聞くまで、アタシには美優さんがそういう過去を抱えているようには見えなかった。
「きっと変われてますよ、美優さんは。だってアタシ、こんな優しいお姉ちゃんがいたらなあ、って思ってますよ」
 言ってから気恥ずかしくなって、アタシは思わず目を反らした。
 美優さんも、少し照れ臭そうにはにかむ。

「ありがとう聖來さん。なんだか今の言い方、貴女のPさんに似ていましたよ」

 その言葉で、アタシはPさんのことを思い出す。
 突然表情をこわばらせて、突き放すようなことを言った、あの瞬間を。
 美優さんは、多少なりともPさんを知っているみたいだ。
 相談してみてもいいかもしれない。

🐕 🐕 🐕

 控えめなノックの音が、薄暗いプロジェクトルームに響いた。
 ああ、そういえば水木さんに明日以降の予定を伝えてなかったな。などと考えていると、こちらの返事を待たずに扉が開かれた。
「Pさん!」
「え、美優さん!?どうしました!?」
 隣の課の美優さんがものすごい勢いでデスクに詰め寄ってきた。
 彼女にしては珍しく、ずいぶん怒っているようだ。
 だが、理由は問う前につまびらかになる。

 美優さんの背後、閉まっていく扉の向こうに、困惑した水木さんが立ちつくしているのが見えた。

「聖來ちゃんから聞きましたよ!」
 どうやらそのようですね。聖來ちゃんなんて呼ぶくらいに距離を詰めているとは思いませんでした。
 でもそれなら、どうして水木さんは一緒じゃないんだ?
「急に機嫌が悪くなったって。私はPさんが不機嫌なところなんて見たことなくて、最初は信じられませんでした。でも話を聞いたらもしかして、と思ったので確認です」
 普段の彼女からは考えられない勢いで捲し立てると、美優さんは一つ深呼吸を挟んで表情を和らげる。

「間違っていたらごめんなさい。昔イヌを飼われていましたか?」

 本当に、今日の美優さんはどうしたんだろうか。こんなにズバリと核心を突かれると、なにかに憑かれたんじゃないかと心配になる。

🐕 🐕 🐕

「……そうですか。そんなことが」
 そのものズバリをついた美優さんの指摘に、俺は観念してすべてを話した。
 俺の独白を、美優さんは静かに聞き届けてくれた。
 彼女らしい少し憂いを帯びた表情で、俺から視線を落とす。
「よくわかりましたね、俺がイヌ苦手だって」
「私もそうでしたから」
「え?」
「高校生の時、私も飼っていた犬を亡くしました」
 そうだったのか、知らなかった。
 ならば、彼女はあの悲しみを克服したのか。
「どうやって克服しましたか?」
「あの子は長生きをしてくれたので、ちゃんと見送ることが出来ました。Pさんのケースとはだいぶ事情が違いますね」
「そうですか」
 うらやましいことだ。
 別れるまでの時間を、しっかり共に過ごせたのだから。

「でも、それと聖來ちゃんとはなんの関係もありません」

「……はい」
 下唇を噛みスラックスを握って耐える以外、なにも出来ない一言だった。ガス漏れみたいな返事も、ようやく捻り出したものだ。
「聖來ちゃん、とても不安そうでした。急にPさんが冷たくなったって」
 事実、その通りだ。
 俺は感情にまかせて担当アイドルを傷つけた。
 プロデューサーの態度としては失格だ。
「聖來ちゃん、今日が初日だそうですね。私も覚えています、ここに来た最初の日のこと」
 その日のことは俺も覚えている。彼女がここで最初に話しかけた人間が、誰でもなく、俺なのだから。
「場違いなところに来てしまった、とか。こんな大きな会社で埋もれずにやっていけるのか、とか。色々考えました」
 そういえば、水木さんも今日一日ずっと敬語だったし、契約直後なんて、気疲れでグッタリしていたっけ。
「私なんかと一緒にしたら悪いかもしれませんけど、そういう気持ち、聖來ちゃんにもあったと思うんです。それなのに冷たい態度を取るなんて、かわいそうです」
 美優さんの手に拳が握られる。

「しっかりして下さい!P(あなた)が不安になると、アイドル(私たち)はもっと不安になるんですよ!」

 美優さんの性格からすれば、勇気を振り絞って放たれた喝に、俺はただ「はい」と力なく首肯するしかなかった。
 目に涙を溜めてこちらを睨む彼女が、ドアを指差す。
「行って下さい。すぐに!じゃないと、私はPさんを許しません!」
 本当に、今日の美優さんはどうしたのだろうか。
 許さない!なんて、普段の彼女なら絶対に口にしないし、第一、その顔に気弱さがない。
 彼女は今、自分の信じるものの信頼を落とした俺に、はっきりと怒っていた。アイドル活動を通して得た自信の現れだろう。
 俺も水木さんをそんな風に導いていかなければならないのに、なんてざまだ。
 なにより、美優さんほどの女性にそんな顔をさせるなんて、ここで行動に移れなきゃプロデューサー以前に男として廃る。
「ありがとうございます。美優さん」

🐕 🐕 🐕

 助手席から望む風景が、アタシの気分とは裏腹に弾む。普段だったら、ダンスのリズムのように感じてウキウキするはずの振動が、今はただ不快でしかなかった。

「聖來ちゃんはちょっとここで待っててもらえますか?」
 美優さんに連れられてプロジェクトルームに戻ったと思えば、彼女はアタシを置いて一人でPさんのオフィスに入っていった。
「Pさん!」
「え、美優さん!?どうしました!?」
 そんなやり取りを最後に、防音の扉はバタリとアタシを世界から締め出す。
 そうして蚊帳の外に置かれてしばらくして、やっとPさんは戻ってきた。
「水木さん、遅くまで残しちゃってごめん。家まで送るよ」
 Pさんが上着を羽織ってそう告げる中、いまいち事態がのみ込めずに困惑するアタシに、後を追って出てきた美優さんが頷いた。
「大丈夫ですよ。Pさん、ちゃんと全部話してくれます」
 美優さんはアタシよりPさんのことをよく知っている。だから、彼女の言葉に従うしかなかった。

「ごめんね、水木さん」
 車窓風景が、青山のビル群から首都高の防音壁に変わったところで、Pさんが唐突にそう呟いた。アタシも沈黙とフラストレーションに耐えられなかったので、ちょうどいい。
「いきなり謝られてもわかりません。どうして急に冷たくなっちゃったんですか?アタシ、なにかしちゃいましたか?」
「そうだね。まずはそれを謝らなくちゃいけない」
 前を向いたままだが、Pさんの声は真摯だった。
「水木さん、キミはなにも悪くない。全部俺の感情の暴走だ。すまなかった」
 それだけじゃなにもわからない。
「仕事に関係なくてもいいです。話して下さい」
 Pさんは黙って頷き、深呼吸を挟んで、ハンドルを握る力をグッと強めた。

🐕 🐕 🐕

 昔々のお話だ。
 ある少年の家に、一匹のラブラドールレトリバーがやって来た。中学の入学祝に、両親が買ってきてくれたのだ。
 小学生の頃から熱望していた犬をプレゼントされ、少年は大いに喜んだ。
 張り切って命名した、その名はレト。
 レトリバー種の頭2文字を冠したその名に、レトもすぐに慣れ、少年との絆を順調に深めていった。
 少年は限りない愛をレトに注いだ。
 餌やりや散歩をしっかりと管理し、躾の手間もいとわず、予防接種にさえ自分で連れていった。
 まさに阿吽の呼吸ともいえる信頼関係を築いた一人と一匹だったが、そんな少年とレトの間に、ある病が立ちはだかった。

進行性網膜萎縮症。

 通称PRAと呼ばれるその病は、網膜の変性萎縮が最終的には失明にまで発展する、遺伝性の病だった。
 発症は、レトが2歳になって間もなく発覚した。家から出る時やマーキングする時、門扉や対象物に激突を繰り返すようになったのだ。
 そして、症状に気づいた時には、もはやレトの目は手遅れだった。
 ご主人の姿が見えず不安そうに鳴き続けるレトの姿を、少年はもちろん、周囲の人々も憐れんだ。
 それでも少年は、自分の時間を削ってでもレトを介護し、その生活を支えた。

 しかし介護とは、大変な負担を伴う。
 少年は消耗し、その顔から徐々に笑みは消えていった。
 そして、悲劇が起こる。

 その日、少年は帰宅して早々に、レトの散歩に出る気でいた。
 しかし、待っていたのは、見えないながらも匂いで少年を見つけて笑う愛犬ではなく、神妙な面持ちの両親だった。
 少年の様子を見かねた両親は、レトを安楽死させていた。
 両親は精一杯の激励と称賛を少年に浴びせ、自分たちも断腸の思いだったことを主張し、泣いた。
 だが、その言の葉のどれも、少年の心には届かなかった。
 彼は塞ぎ込んだ。
 自分を責め、両親を許せずにいた。
 学校には機械仕掛けのように通い続けたが、友人や教師の目から見ても、その落ち込みぶりは明らかだった。
 しかし、ある時を境に、少年は明るさを取り戻す。
 両親はもちろん、周囲の人間はみな、少年が悲しみを乗り越えられたのだと思った。
 だが―

 俺はイヌの話をすることも、イヌと触れ合うこともなくなった。一時停止したあの日が、今日にも再生されてしまいそうで、物語が記憶に代わるのが怖くて。

🐕 🐕 🐕

 目とハンドルを何度も往復させた手をウインカーに伸ばして、Pさんはなんでもないように「ハハッ」と笑う。
「ちょっとパーキングに寄るね」
 アタシは黙って頷いて、目元をぬぐった。
 声も上げられずに焼きつくされたPさんの思いを前に、とてもじゃないがガラガラに枯れた声で返事なんて出来ない。
 パーキングエリアに停まってすぐに、「顔を洗って来る」とPさんはトイレに行った。真っ赤な目を手で覆って、少し恥ずかしそうに腫れた目で必死に笑顔を形作って。
 一人残された車内で、アタシは声を押し殺して泣いた。

 アタシがわんこのことを懸念した時、彼はどんな気持ちでいたのだろうか……。

🐕 🐕 🐕

「あーくそ、かっこわり」
 鏡に映った赤い目の自分に言って、俺は心の態勢を立て直す。

「わんっ!」

 他の客の連れたイヌの鳴き声に、ビクリと身がすくんだ。
 四面楚歌だ。
 それでもなんとか気分を整えて車に戻ると、水木さんの肩が震えているのが見え、俺は自販機に向けて道を引き返した。
 
 彼女は今、どう思っているのだろうか。
 
 ホットの紅茶とコーヒーを買って車に戻ると、水木さんの様子は落ち着いていた。
「はい、コレ」
「ありがとうございます」
 細く弱々しい礼の通り、彼女の目もまた腫れている。
「ごめんね、現役でイヌを飼ってるキミにあんな話して」
「いえ、いいんです。むしろアタシこそごめんなさい」
「謝ることなんてないよ、キミはなにも」
「ダメ!そんな風に逃げちゃ!」
 悲鳴のような声で水木さんは俺の手を掴んだ。
「おおげさだな。別に俺は逃げてなんか……」
 水木さんはゆっくりと首を横に振る。

「誰も悪くなくても、それでもPさんはすごく傷ついたから、アタシにあたっちゃったんでしょ!」

 あれ?なんでだ?言葉が出ない。
 なんでまた滲んでるんだ?俺の視界は。
 俺はただ、みんなが俺に気を遣わないように、気まずくならないように、笑ってくれるように―
 ただ、それだけ―

「もっと自分のこと大事にしてあげて!自分のために、ちゃんと泣いてあげて!」

 ああ、そうか―

「ごめんねって、レトに一番思ってたのは、Pさんでしょ?」

 俺の目もおかしくなっていたんだ。

 溢れてくる流れる涙を、もはや止める術はなかった。
 この涙は、きっと枯れるまで流れるのだろう。
 置き去りにしてきた自責と後悔と悲しみが、枯れるまで。
 水木さんが、頭をそっと抱いてくれる。
 温かさに包まれて、涙はより一層溢れた。
 その温かさは、レトを抱いた時に感じたものと、よく似ていた。

🐕 🐕 🐕

「落ち着いた?」
 水木さんに頭を抱きかかえられたまま、黙って頷く。
 ゆっくりと力を弱めていく水木さんの腕から逃れ、俺は顔を伏せたまま運転席のシートに沈み込んだ。
 恥ずかしくて、とてもじゃないが顔を見られない。
 創作話にすることで距離を置いていたはずの感情が、一気に雪崩れ込んで、歯止めが効かなかった。
 それでも、優しい彼女は俺の頭を撫でながら、そっと見守ってくれていた。
 俺がかかえていた感情を、見事に水木さんは見抜いた。

―感情表現の向上は他人の人間観察からだ―

 アシスタントマネージャー時代に聖さんが美優さんに言った言葉だ。
 少なくとも、水木さんがそう注意を受けることはないだろう。
「話してくれてありがとう」
 首を横に振り、咳払いを一つ。
 まったく、格好がつかない。
「こっちこそありがとう。かっこ悪いとこ見せたね」
「かっこ悪くなんかないよ。Pさんすごく強いんだなって思ったよ」
 なんだか赦されたような心持で顔を見ると、俺に負けないくらいボロボロな顔をした彼女は、溜息を挟んで続ける。
「アタシも頑張らなきゃ、歌」
 ああ、この子は伸びるな。改めてそう思った。
 強いし、靭(つよ)い。
 こんな子に巡り合えたなんて、俺は幸せ者だ。
「その意気さ」
 顔はきっとボロボロだろうが、俺は笑ってみせた。
「今、改めて確信した。キミはシンデレラになる。絶対に。それどころか、世界中で愛されるトップアイドルになれる。みんなが憧れる、世界でただ一人のお姫様に俺がする」
「うん。きっとなるから。それまでちゃんとアタシの手、握っててね」
 喜んでそうさせてもらおう。
「改めて、今後ともよろしくね。水木さん」
「セイラって呼んでいいからね」
 そういえば、いつの間にやら彼女も敬語を止めている。
 お近づきのしるしに、ということなのかもしれない。
 ならば、こちらもそれにならおう。
「よろしくな、聖來」
「うん♪Pさん、セイラの長所、伸ばしてね!もちろん、歌もちゃんと頑張る!」
 それから、俺たちはお互いボロボロの顔のまま笑った。

🐕 🐕 🐕

「わんっ!」

 洗面所で顔を洗っていると、誰かの犬が元気よく鳴いた。
 その姿を見て、アタシはあることを思いつく。
 うん、我ながら悪くない。
 色んな意味で、アタシの中では走り始めちゃったし、Pさんには責任取ってもらわなきゃね。

 車に戻ると、一緒に車から出たPさんはすでに戻って書類を広げていた。
「ただいまPさん」
「おかえり。せっかくだし、今後の話を少しして……なんで入らないの?」
「ただいま、Pさん」
「うん。だからおかえりって」
 中々わかってくれないので、アタシは額に手をあてて誰かを探すように辺りを見回してみる。
 すると、Pさんはフッと笑って、ゆっくり言い直してくれた。
「おかえり、聖來」
「うん♪」
 初めて会った時からそうだけど、Pさんはアタシの欲しいものをしっかりと捉えてくれる。一緒にいてなんとなく安心するのは、きっとそれでだ。
「さ、仕事の話をするよ。まずは初ライブを出来るだけ早く……そうだな、1ヵ月以内には一本目を入れる」
 でも、仕事はスパルタみたいだ。
 アタシもしっかりしなきゃ。
「が、頑張ってみるよ」
「差しあたって実力の底上げを図るわけだけど……合宿はやっぱり難しい?」
 うん、そうそう、それならアタシにいい案があるんだ♪
「Pさんがわんこ預かってくれるならいけるよ♪」
 出来るだけいい笑顔を意識してPさんを見ると、彼は引き攣った笑顔で応えた。
「そ、そっかー、ち、ちなみに犬種は?」
「ゴールデンレトリバー♪」
「そ、そっかー」
 さて、Pさんはどうするのかなー?
 彼のスパルタデビュー案にのる以上、そのサポートにもある程度スパルタのスパイスをお願いしなきゃ、フェアじゃないもんね♪
 しばし渋い顔のまま「ぐぬぬ……」と葛藤していたPさんだったが、肚を決めたらしい。
「っしゃあ、やったらー!」
「ふふっ、その意気だよPさん♪」
「ちなみに名前は?」
「え?だからわんこ」
「へ?わんこって名前なの?」
「むっ、そうだよ、悪い?」
「じゃあ猫を飼ったらにゃんこなの?」
「いや、飼う予定ないからわかんないよ」
「さいで……」
「差しあたって苦手の克服を図るわけだけど」
「この……俺が言ったそのまんまを……」
 うん、まあ、そろそろいいかな。
「アタシと一緒に、わんこの散歩に行かない?」
「ああまあ、それくらいなら」
「じゃあ車出して、早くしなきゃ日が暮れちゃう」
「今日これからかよ!」
「出来るだけ早く、でしょう?」
「くっ……」
「じゃあレッツゴー」
「うおおおお!もうやけくそだー!」

 こうして、アタシのアイドル1日目は終わった。
 正直まだまだわからないことだらけだけど、アタシはPさんと一緒ならどこまでだって行ける。

 そう確信出来る、小さな小さな最初の一歩を、一緒に踏めた。


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