職歴について語る。その4

2006年1月、僕はノンバンクを辞めて不動産証券化をしているベンチャー企業に転職した。
前の会社でも似たような部署はあったんだけど、そう簡単に異動できるとは思えなかったので、思い切っておカネを貸す側から借りる側に回る事にしたのだ。もちろん知識なんてほとんどない、ほぼゼロからのスタートだった。

入社して最初は先に転職してた人の補佐につく事になった。やる事は不動産ファンドのローンの契約書を作って資金決済までやる事(クロージング)だった。
契約書はたくさんあって、案件毎にオーダーメイドである。金銭消費貸借契約証書、プロジェクト契約書、匿名組合契約書、アセットマネジメント契約書、不動産管理処分信託契約書、その他諸々、、、である。どれも何十ページもあるぶ厚い契約書である。これを限られた期間で、それも決済日が決まってるから絶対に遅れる事は出来ない。こちら側の弁護士、相手と相手側の弁護士と何度もメールでやりとりしながらドラフトを作り上げていく。修正箇所にマーカーを付けていくから、ワードファイルはあっという間にカラフルになってしまう。

当時は働き方改革なんてなかったから、夕方からが本番で、夜中までメールのやり取りで駆け引きをし、タクシーで帰って翌朝からまた交渉をする。もちろん貸す側が立場が強いんだけど、実務上理屈に合わない事を平気で言ってくるから、これを如何に実務に落とし込んで相手をやり込めるかが我々の醍醐味である。そのためには自分側の弁護士と親しくならないといけないので、対等に話が出来るくらいの法律的知識を身につける事が必要になる。そうすれば弁護士も信頼して夜遅くまで付き合ってくれる。貸す側の担当者とも丁々発止しながらも理詰めで話せば最後は折り合える。外からはカッコ良く見えても、結局は人間関係が物を言う泥臭い世界なのだ。

最初の案件はシニアローンがカリヨン銀行(クレディアグリコルとクレディリヨネが合併したもの)、メザニンローン(シニアローンとエクイティの間)がイーバンク銀行(今の楽天銀行)だった。カリヨンは不動産証券化に不慣れで話が通じず苦労した。こちらが仕組みを教えてあげる始末だった。イーバンクは在籍してた会社が出資してたのでメザニンに使ってたんだけど、そもそも銀行としてどうなの?的な感じだった。貸出免許を持ってなかったので、証券化ビークルが社債を発行してそれをイーバンクが引き受ける形式を取ってたんだけど、普通は社債は無担保なのに(担保付きにするにはえらく手間がかかるのだ)、担保をつけろと言う。じゃお前ら担保つける方法考えろよと言うと答えが返って来ない。あまりにもアホ過ぎるので議論するのを止めてしまった。
ちなみにイーバンクはリーマンショックで不動産向け社債のほとんどが焦げ付いたせいで楽天に買収されてしまった。だから楽天銀行が出来たのは僕にも責任の一旦があると思っている。

不動産ファンドの場合、資産全体に占めるローンの割合(LTV)は多くても70%くらいで、シニアが50%、メザニンが20%くらいなんだけど、この会社ではLTV95%なんてのを平気でやっていた。エクイティの調達先が少なかったのでそうせざるを得ない事と、ハイレバレッジならより儲かるという楽観的思想からだった。だからイーバンクは50〜95%くらいの深い所までメザニンを出していた。もうエクイティの世界である。リスクとリターンが全然合ってないんだけど、不動産価格が上昇してたうちは問題にならなかった。

僕は普通の不動産ファンドのスキームである合同会社(GK)で不動産を買ってローンと匿名組合出資(TK)で資金調達をする、いわゆるGK-TKスキームの他に、外国人投資家が好む特定目的会社(TMK)スキームもたくさん手掛けた。GK-TKスキームはコストが安いけど法的に安定していないので、外国人投資家は法的にも税制的にも(アメリカのエリサ法というのに依拠している)安定しているTMKスキームを好むのだ。だから僕は業界内でTMKに精通してる一握りの人物だと自負している。

仕事はハードだったけど、案件がどんどん来るので楽しかった。不動産証券化バブルの影響で給料もうなぎ上りで、分不相応なボーナスを貰っていた(年俸制だけどボーナスは業績連動だった)。法律的な知識も増えてレンダーや弁護士とも対等に渡り合えるようになり、社内でも頼られる存在になっていた。会社も大手町に近かったし、いっぱしの人物になったと勘違いしていて、このまま物事はうまくいくと思っていた。

しかしバブル崩壊は着実に近づいていた。不動産の価格は上昇していて良い物件が買えなくなっていた。そこに米国発のサブプライム問題がのしかかって来た。不動産価格は下落し、エクイティは吹き飛び、ローンは焦げ付く一歩手前だった。会社の業績が急速に悪化し(会社もエクイティを出していた)、四半期決算で赤字を計上した。上層部は一時的な事だと火消しに躍起になっていたけど、僕はそれまで社内の財務担当者から良くない噂を聞いていたので、直感的にまずいと思った。
幸いなことに有休がたくさんあったので、半休を取ったりして転職活動を始めた。とにかく大手に行かないとまずい、早くしないと自分より優秀な人材がマーケットに溢れると思って隠密かつ迅速に動いた。そのおかげで1ヶ月くらいで今の会社から内定を貰った。

2月末(決算期が2月末だった)、上司と前期の振り返りとボーナスの提示、および翌期の年俸について話す時間があった。あれこれ1時間くらい話した後、最後に辞職する意向を伝えた。理由はやはり激務で疲れたからと言った(会社の業績云々は言わなかった)。上司は僕のことを凄く買ってくれてた人だったので、正直胸が痛んだ。案の定慰留されたけど、決めた事は覆さなかった。そのあと残務処理も含めて2ヶ月弱会社にいて、有休消化で1週間超休み、シカゴで一緒に仕事をした弁護士と会って四方山話をし(弁護士は留学中だった。今は某大手弁護士事務所でパートナーになっている)、シアトルでイチローのホームランを観た。

会社の最終日、上司から「今まで何人も辞めても何とも思わなかったけど、君とはずっと仕事をしたかった」と言われ、再度胸が痛んだ。辞めたのは仕事のせいじゃなかった(でも身体は悲鳴を上げていた。それは確実に僕の身体と心を蝕んでいた。それが後に表面化する事になる)。会社のマネジメントが悪かったのだ。2008年の4月末、2年4ヶ月の勤務を終え、僕は3回目の退職をして今の会社に移った。その年の9月、リーマンショックが起こった。不動産証券化ベンチャーは次々と破綻したけど(パシフィックマネジメント、ダヴィンチアドバイザーズ等)、僕のいた会社は奇跡的に生き残って大きくなっている。ただし昨今のマーケット環境を見ると、一波乱ありそうな気がしている。

次回は今の会社の事と、自分の近況について語ってみたい。全てをさらけ出す事は出来ないけど、雰囲気は伝わるようにするつもりだ。

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