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お答えいたします ~ 『人に伝える』大切さについて

いっちーさん、質問ありがとうございました❤️

まず最初に

初のnote記事をこれでもかと書きなぐって15パート、

果たしてどれほどの反響があるものか、

というかスルーされるかなと思っていたくらいだったところ(笑)

私の記事を読んで、こんなにまで考えていただけたこと

素直にとても嬉しく思います。

ありがとうございます!



では、お応えさせていただきますね^^


——————


「何がきっかけで、『人に伝える』ということの大切さに気づいたんですか?」


というご質問に対してへの回答。


私も見習って、まずはぎゅっと短く書き出しました。
それがこちら。




「自分がもし明日死ぬとして、

 死ぬ前に人生最も優先したいことが

 誰かの心に残ること、何かを託すことだと気付いたから」



若造がなんか言ってると思われそうですが🤣


このような考えに至ったのは、それに伴う経験があったからこそだと自分では思っています。


まず間違いなく、私の母の存在は大きかったでしょう。
というのも、母は私の中で、ある意味偉大なヴァイオリニストであり、そのため音楽家のあり方に関しても手本にもなっているような人でもあります。


同時に、彼女が死に直面して、そのことによって人生観が変わり、晩年に彼女が選択したこと、私にそれを訴えかけるだけの手がかりを母は残して逝きました。
一度しかない一生、どんなことを大事にするべきかを考えさせられたんです。



と、母の話も大事ですが、その前に昔の完璧主義に囚われていた私自身の話に触れますね。


私自身は、この母の一連のことを見届ける前は、とにかく自分しか見えていない人間でした。


以前、noteに書いていたことでもありますが、横山家で、横山ヴァイオリン教室で、必死に生き残るために楽器をやっていたようなもので。

0か100か、そのどちらかしかない、100に至らない楽器演奏しかできない自分はダメだ、

そんな自己否定も繰り返していたので、中学生〜高校生初期の頃は、大変にやる気のないヴァイオリンをやっているようにしか、きっと周りからは見えなかったと思います。


実のところは、常に完璧でありたいと思っていました。

人より下手かもしれない、と思った瞬間の負の感情も凄まじかったように思います。だからこそ、諦めグセもとても強く、そのために逆に無気力な人間のようにも見えることもあったはず。(モチベが下がると書かれていたことにもめちゃ共感しました。)

ちなみにこの頃、現実逃避がてらにゲームに没頭していました。


自己否定の極みで自分嫌いも強く、そんな中、ある時体型のことが気になり、「痩せたら自信がつくかも」とありもしないことを思い立ち、結果無理なダイエットをし体を壊してしまい、さらに自己嫌悪に至るというアホなこともやらかしていました。笑

とにかく、白か黒、0か100、その二つしか存在しないという価値観をもとに生きていたときは、ずっと苦しかったような感覚、溺れ続けているような息苦しさを日々感じていたように思います。

私が完璧主義をやめようと思ったのは、この苦しさを捨てたかったからというのもあります。


それは楽器の練習をしている時に、顕著に出ました。


「また音程を外しやがって」
「あ、そこ!さっきもうまく弾けてなかったやん」
「何回やったらできんの、へたくそだな」


見たくもない鏡の自分を見つめ続けるような作業
それが完璧主義が強く出ていた時の練習風景でした。

そこには指導に厳しい父もいないのに、部屋には私一人なのに
ずっと責め続ける心を持った自分がいて、毎分毎秒の練習が地獄のように感じました。


学生時代この状態のまま人前で弾いていたわけですが、当たり前かもしれませんが、辛くて辛くて仕方ありませんでした。

こんなにもできていない、ダメな自分を、人前でさらけ出さなきゃいけない、なんて辛いんだ、と思いながら弾いていました。


もし、この時のままで生きていたら、たぶん完璧主義を引きずったままになってたのかなと思うんですが、



この思考が180度変わりだす最初のきっかけになったのが、母の闘病生活を送っている中での、病院での院内コンサートを見たこと。


母が、病院で、お金も何も関係なく、多少の演奏上のトラブルも何も気にせず、心ゆくまでその瞬間を楽しむ、自由に演奏をしている現場を目撃したことです。


完璧主義の人間の視点からすれば、不完全の極み!みたいに思えるような場だったかもしれませんが、実際母はとても幸せそうに弾いていましたし、その場にいる母の仲間でもある闘病患者さんたちも、母が奏でる音色に涙を流して、治療一緒に頑張ろう、と励まし合っていて、それを見た私は、心の中で何かが変わるような、そんな予兆を感じたように思います。

自分が完璧に弾くことが、果たして他の人にとっても必要なものなのか?
完璧を追い求める自分って、なんのために追い求めているのか?
ポジティブな理由?ネガティブな理由?

色々考え出すきっかけになったと思います。



それから、人に伝えたいと思うのは、自分自身がせっかくこれまでの人生をかけて作り上げてきた、音楽の内容、音楽観を、自分の代で絶やしたくないと考えているからというのもあるでしょう。

演奏法はもちろんですけど、それだけじゃなくて、


例えば私が人に伝え続けることで、もしクラシック音楽嫌いのお子さんが私の演奏やお話をきっかけに音楽を好きになってくれて、そのまま育っていって大人になった時、そしてその人が子供を作った時、


その子に「クラシック音楽って、弦楽器っていいもんだよ」て教えてくれたら。
そのお子さんが楽器を始めてくれたら。


そうして、次世代に新たな音楽ファンや新たな音楽家を生み出すきっかけになるかもしれない。

伝えるって、次世代につなげることなんだと思うんです。


私は両親からそれぞれの音楽の素晴らしさや人にとって必要不可欠であるということを、それぞれ違ったアプローチで教わってきたように感じています。


母は本当に優しい人で、優しさに詰まった音楽を、
父は厳しい人だけれど、音楽を愛していて、その感覚を

そんな親から受け継いだ概念を、
私なりの解釈のもと、かつ時代に合った音楽観を次の世代に伝えたい


そのような使命感があるからこそ、人に受け入れられる音楽も考え続けるようになりました。

完璧主義はあくまでも自分の中でのみ持つようにして、人にそのプレッシャーを与えない、線引きをきっちりしようと思って今に至るというわけです。


人に受け入れられる音楽をまず提供できるかどうか、ここでチャンスを掴み、その次の段階でさらなる高みを目指した音楽を披露すればいいと思っています。

その高みの音楽をお客側が欲した時、その時に完璧を目指した音楽を出せばいいと思うんですね。
完璧なものを求められていない時から完璧を見せつけてしまうと、それだけで引いてしまう方もいるでしょうから。


私の演奏の目的は、noteでも書いたように「導入の役割」です。
その目的に沿った音楽を提供する場なら、そのような選択をして音楽を披露するし、究極のものを見せて欲しいということなら、それはそれで全力対応する覚悟もあります。


けれど、基本的に「次世代につなげたい」という願いがしっかりあるので、それゆえに自分にしか意識が向かない、ということがなくなったんだと思います。


ここでですね、私が色々と迷っていた時に大変感銘を受けたスピーチがあります。
スティーブ・ジョブズ氏の大学卒業式でのスピーチ、とても勇気付けられる内容なので、まだ見たことがないということでしたら、ぜひ見てみてくださいね。


これで回答できたでしょうか...

もし何か足りないとか、聞きたいことがあればまだ全然聞いてくださいね。


2000文字以上に対して、3000文字以上かいて返答してしまいました、ごめんなさい。笑

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