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Bee our guest

アメリカ大統領選の次の日、誕生日にどうしてもニホンミツバチの養蜂を見たいというメリッサの家族が我が家に来た。「Melissa」はギリシャ語のミツバチに由来する名前。ギリシア神話に、神々の王であるゼウスが子どもの時に、メリッセウスという蜜蜂男の娘「メリッサ」に蜂蜜を与えられ育ったとされているそう。耳には蜂型のシルバーのピアスが光ってた。佐世保の米軍基地から休暇中の九州旅行。「彼が私のビーキーパー」とおどけながら紹介してくれた旦那さんは、海軍勤務で、大きな軍艦がフォーメーションしてる写真をiphoneで誇らしげに見せた。それにまったく反応しなかった私に、もう一枚見せてくれた、可愛い犬2匹と、14歳の息子と始めていた9箱の蜂の巣箱をバーモント州に置いて、家族3人で日本に来ているんだって。

ビーキーパーは、「軍関係者はみんなトランプに投票するよ。バイデンだと軍隊が縮小されるからね。」とサラリと答えた。そう答えても嫌いになれない、やけに感じの良い空気が漂う男で、戦地に行っても絶対死ななそうなオーラがある人だった。彼は、実はおじいちゃんが嘉手納(基地になってる土地)である私の沖縄料理、鶏飯をとっても美味しかったと丁寧に言ってくれた。

決め手は、隣町の大好きなかしわ(鶏肉専門)屋さんのおじいさんの鶏ガラ。いつも骨に少し肉がついたままのをおまけしてごっそり入れてくれる。店の奥に、志布志出身の力士のポスターが貼ってあって、「子どもの頃からうちの鶏肉食べてた」っていうのが自慢。長い時間かけて煮出したスープの骨の力も、十分に効いているに決まってる。錦糸卵と胸肉を裂いたのとネギと紅生姜と沢庵、椎茸の旨煮と干し椎茸を戻した出汁の煮汁もショットで入れる。鶏ガラのスープにレモングラスを加えるのは、沖縄の首里で、コミュニティ畑をやってる友達、じゅんちゃんに教えてもらったやり方。奄美から沖縄までいろんなスタイルがあるけど、いつ到着するか分からない客人ご一行に、スープさえ温めれば暖かいご飯が提供できる、って工夫なのだそうだ。一番喜んで食べてくれるのは、我が家の子どもたちなんだけど。

家族ぐるみで食後の暖かい時間を過ごし、最後にビーキーパーが席を立つとき、大きな背を丸めたからか、ダイニングの壁にかかっていた、黄色いコラージュの額縁にぶつかってしまった。額がゆらゆら揺れて、いろんな残像が、そこからバサバサ落ちてきた。中の絵は、カシーム・サブティさんのもの。イラク戦争の最中に、爆撃された図書館から、本を拾ってコラージュした作品だった。それをビーキーパーに話すべきだと思ったけれど、次の瞬間、私は言わないことを選んでいた。お風呂や部屋へとみんなは戻り、私はお皿を洗いながら、話題にできなかった言い訳を、いろいろ浮かべた。

その作品を銀座のギャラリーで選んだとき、作者のカシームさんが在廊していた。彼にとって小さいころから大切な場所だった、図書館が爆撃を受けた直後、そこにかけつけ、救い出した、焼けたり壊れたりした本たち。それをコラージュして作ったという作品が、白い壁のひと部屋にぎっしり並んでいた。イラクの特産のナツメヤシ、飛び交うとんぼ、里山、家並み、港、夜景。カシームさんは、コラージュを解説しながら、自分が大事にしている場所のことを語ってくれた。世界で一番古い文明を持つ人たちの場所。

そして、そこでの暮らしのなかで、人が集まるといつも唄うように、一曲うたってくれたり、アラビア文字を書いてみせた。仲間が殺されて、爆弾が落ちても、表現することを続けた大きい手。自分が育った下町のおじさんみたいな親しみから、いつもニュースの一部だった「イラク」が覗き見えた。こんなふうに文化を体現するひとたちが、それぞれに原風景をもってる家族が、どのくらい殺されたんだろうだろう。夜みたいな紺色も、空と海のような水色も、赤とピンクのグラデーションもきれいだったけれど、私は黄色いのを選んだ。

ダイニングに残ったうちの娘に、壁の絵の由来を、初めて詳しく話した。20代前半の頃、沖縄に新しい米軍基地建設で、埋め立てられる計画になったジュゴンの海を、友だち何人かで見に行ったことも。ジュゴンの餌場でもあるサンゴ礁の藻場を透明の海を飛ぶみたいにシュノーケリングしていたら、乗ってきた船が座礁しかけた。慌ててみんなで、砂浜から海の中に、船を押し戻そうとした。思ったより重い船が波に再びあおられて、もうダメと思ったとき、カヤックで遊んでた米軍の若い兵士が2人駆けつけて、私たちの頭上から、ググッと船体を押してくれた。船は軽々と海の中にもどった。「ありがとう、助かった!」て言ったときに返してきた表情が、「まかせて」って感じで、ほんとに嬉しそうだった。船での帰り道、基地を見ながら「彼らは本当は(戦争じゃなくって)ああいうこと(力持ちで私たちを助けたようなこと)したいんじゃないかなっ」て、マヤちゃんが言った。

まだ10代のとても若い人たちが、沖縄の青い海を広告に軍隊にとられて、海軍に連れてこられるんだそうだ。そのあと一人で先に帰る道中で私は、基地に業者として働いてるおじさんの「娘に似てる!」笑という理由で、その一つ、キャンプシュワブの中に秘密で連れて行ってもらえることになった。

軽トラの助手席に乗って忍び込んだフェンスの内側では、砂漠色の迷彩服を着て、中東に向かうための訓練の真っ最中。基地の建物に入ると、ビールやコーラやファーストフードがものすごく安くて、VIP待遇な雰囲気のラウンジに、ピカピカしたバブルな高揚感が漂ってた。廊下には、どこかの国で爆弾を落としてる写真や、戦地で何度も活躍した英雄の写真が金色の額に入って飾られてた。ずらりと並んだ電話ボックスは、全部塞がっていて、船を押してくれたような大きな青年たちが、身体をくの字に曲げて、誰かにずーっと電話をしていた。

アメリカではミツバチが大量死している。毎年30%ずつ。メリッサの家族は、農薬がその一番の原因だと心を痛め、オーガニックの食べものが大事だと言ってた。ミツバチはピンチになると、群れの中から一匹ふらりと人間を呼びにくるっていう話にも、あるある、とうなづいてくれた。洗濯物を干してるところに一匹だけ飛んできて、しつこく手をつつくから駆けつけてみると、スズメバチに巣が襲われていたり、ということがよくある。ニホンミツバチはフォーメーションが得意で、みんなで羽を一斉にばたつかせて風を送ったり、身体を擦り付けて熱を出したりする。エクアドルからきた虫博士マルティンも、それをとっても面白がってた。スズメバチ、スムシ、病気、そして農薬というニホンミツバチの天敵に加えて、3年くらい前から、異常気象で、ミツバチはますます暮らしにくそう。花の季節に雨が続いて蜜を集められないから群の勢力も弱まっている。世界中で蜂を守っていかないと、2035年には地球上のかなりのミツバチが死滅することが予測されている。ひとの食べものの大半の受粉を担ってる彼らが消えたら、飢餓が深刻になるだろう。

メリッサ家族がお土産にくれたスティック式の西洋ハチミツと、うちで採りたての発酵ニホンミツバチを舐め比べながら、14歳の息子さんと一緒に、「これから、蜂の仕事はとても大事なものになるよね」と、うなずきあった。ニホンミツバチは、一種類の花の蜜を集める西洋ミツバチとは習性が違い、半径2キロのありとあらゆる野の花の蜜をあつめる。この周囲の土地の濃縮であり、森そのものだ。うちの蜂蜜の風味は、ちょっと特別。今あちこちに咲いてるうっとりするような野薔薇も、末っ子のネムとストライダーで散歩する道に香る、スイカズラのちょっと紅茶のような風味も、耕作放棄地にほったらかしの金柑などの柑橘の香りもする。蛇がもう出なくなる時期に目印のように咲きはじめる、黄色い石蕗(ツワブキ)の花も蜂は大好きで、薬効成分がとても高いらしい。

我が家の自慢は、ハチミツを加熱しないその味わいと、友だちに教えてもらった「一匹も死なない方法」で採蜜していること。巣箱から蜂の巣を取り出したあと、蜜をとる前に、木工のおがくずを飛ばしたりするのに使うブロワーを使って風を送る。そうすると、蜂がどこかに挟まったり、とった巣に残ってしまったりしないで、ちゃんと元の巣にかえることができる。これは近所の友だちかずみんが編み出した技。それと、重箱式の巣箱の一番上の部分の巣だけを切り取れば、そこには幼虫がいないので、赤ちゃんも死なないですむ。それは隣の県の師匠が教えてくれたこと。

沖縄への旅で、着いて最初に迎えてくれたまやちゃんのお父さんのラミスさんと、那覇の国際通りを歩いていたときのこと。彼は、私たちと一緒に歩きながら、すれ違うアメリカ人みんなに、小さな名刺大の紙を渡していた。ささっと、とてもさりげなく。目的のライブハウスについてから、何を配っていたのか聞いた。「あなたがもし軍隊を抜けたかったら、ここに連絡すれば、弁護士が無料で手続きをして、本国に安全にかえします」という英文とその連絡先。それは、ベトナム戦争のときに、鶴見俊輔さんたちが始めた米兵を一人ずつ帰還させる運動「ベ平連」のやり方だと、大分あとで知った。

東京に帰った私たちは、ジュゴンの絵を描いた透明の名刺を配った。もし、ジュゴンを助けたかったら、ここに連絡してください、と防衛省や、政府の連絡先を描いたと思う。20年が過ぎて、大統領選の結果は、バイデンになったけれど、沖縄の基地負担にとっては、あまり変わりがないみたい。ジュゴンの海の埋め立ては進んでいる。あの頃の私と同じくらいの歳の青年が自転車で沖縄を旅して、うちまで辿り着き、辺野古の様子を教えてくれた。まだ座り込みを続けている人たちは引きづられたりして怪我をし、海は土砂で戦争の遺骨も眠る沖縄南部の土砂で濁っているそう。みんなが座り込みを続ける現場で、ラミスさんが杖をついてスピーチをしていたって。うちのおじいちゃんの故郷、嘉手納はもっと昔から基地になっていて、騒音や地下水汚染などの問題があったときだけニュースになる。海と山が出会う、暮らしやすそうないい場所。おじいちゃんはずっと東京にいて、晩年、水面の美しい絵をよく描いてた。

コロナ騒ぎで、人間の活動が抑えられたとき、タイの沖でゆうゆうと泳ぐ、30頭以上のジュゴンの群れが見つかったっていうニュースを見た。ロイター通信の、空中写真の緑色の海に並ぶ巨体。コロナで大変な観光業が停滞したタイの砂浜には、オサガメが記録的な数の巣穴を作ったんだって。

 隣町の鶏肉屋さんが11月に店を閉めた。近くで同じように老夫婦でならんで、ずっと鳥をさばいてる焼き鳥屋さんが「あのお店はもうないよ。鶏肉はもうスーパーでしか買えなくなったよ。」と教えてくれた。店を出てすぐ「あのう、鶏肉を予約したいんですけど」と電話をかけて、「うちはもうかしわ屋は閉めたの」と切り出したおばちゃんと話した。いつも本当に美味しくて、子供たちも、お客さんも、喜んで食べてたことを伝えた。最近は夕方海に行く前に、スーパーで買っておいた鶏ガラのスープ、ネギと椎茸と錦糸卵を作り置きして、土鍋ご飯の上にムネ肉を置いて炊いておく。だけどやっぱり出汁の迫力が、ちょっと違うんだよね。

もうすぐ分蜂の季節。うちの窓辺では、ニホンミツバチが好きなキンリョウヘンの蕾がふくらんでる。人間は、人間の世界がどうしようもないとき、蜂を呼びに行ったり、ジュゴンに手紙を書いたり、鶏の力を借りたり、波に頼ったりできるようにしておいた方がいいんじゃないかな。

#ニホンミツバチ #養蜂 #キンリョウヘン #鶏














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