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自宅出産と赤ちゃんの持ってる魔法

(夏至の日に生まれた、ひらくの誕生日のごはんのあとに話してたこと。)

ひらくが生まれる数ヶ月前、東京の病院の妊婦健診で、
「子宮頸管長が短いので、入院してください。」と言われた。
「え?」わたしはキョトンとした。初めて顔を合わせるその女医さんは、妊婦のわたしのお腹に触りもせず、お腹の中の赤ちゃんを気配とも感じずに、パソコンの画面に映ったエコーの画像にピピッとスケールを引いて、そう言った。わたしにはとてもテキトーに見えた。

「え?それはできないです。兄弟も小さいし、仕事もあるし、生まれるまで数ヶ月寝てるなんて。だいたい、赤ちゃんもわたしも普通に元気ですけど。」と訴えるわたしの目を見ず、モニターの方を向いたまま、「今ベッドが空いてるから、一度、お家に帰って荷物を持ってきて。」と、彼女は答えた。

その病院には、検診のためだけに通っていた。野口整体で育ったわたしは、元々病院が苦手。「生まれる」ことと「死ぬ」ことを、病院のなかに閉じ込めていたら、もったいないと思うタイプ。

ひらくは3人目だけど、1人目も2人目も取り上げてくれた出張助産師の神谷さんにおねがいして、自宅出産*をするつもりだった。自宅で産むには助産師さんのほかに何かあったときのためにも病院のサポートが必要なのだけれど、さっきの女医さんに「言うことを聞かない妊婦さんは、うちの病院でサポートできません。」と言われ、半ば喧嘩になりかけた。頭がいっぱいになった勢いで、総武線を3駅も歩いて帰った。子宮は、なーんともなかった。なんともない、元気な赤ちゃんの入ったお腹を、数ヶ月も寝っころがらせておくわけにはいかない。

神谷さんに電話して話した。「ケイカンチョウが何センチっていったって、短くても強かったり、人の身体は色々ですよねえ。」
その意見に頷いてはくれたけれど、サポートの病院がNGを出したら、自宅出産はできない、と言うのが神谷さんの答えだった。
「今、ちょうどベッドが空いてるから…」ていうのが入院させたい理由なんじゃないのか、という一言を、なんども飲み込んだ。

初産は、西方という東大の近くの町に住んでた頃。神谷さんは、反対側の坂を下った、白山の八百屋さんの家の人だった。我が家にはシャーっと自転車で来てくれていたけど、助産師界では日本中知らない人のいない、カリスマ助産師。医療の現状に対峙しながら、自然なお産の文化を守ってる彼女の言動は、ハッとすることばかり(TV番組の「プロフェッショナル仕事の極意」にも出演してた!)。

1人目の娘の出産のときは、大きな一軒屋を、友だち夫婦と2組でシェアして暮らしていたのだけれど、1ヶ月に一度神谷さんが来る日にはいつの間にか、みんなが予定を空けていた笑。 あのぅ、妊婦はわたし一人なんですけど。いろんなお産の文化の話をしたり、身体を冷やす果物は大好きでも半分にしなさいと言ったり、マッサージしてくれたり、散歩コースやオススメレシピを教えてくれたり、臨月のときには、船漕ぎ体操を一緒したり。

ユーモアがあってサバサバしてる神谷さんの、命に向き合う厳しさと、命を不思議なもののままに、常に信じていることが、わたしは大好きだった。

1人目のとき、
予定日を過ぎた頃、買い物していたら、近所の友だちが、自分で買ってたプルーンを産後に良いよってささっとカゴに入れてくれた。その帰り、近所の「大きなカブ」って定食屋のおばちゃんが、自転車を引きながら「あのね、遅いほうがいいんだってよー」て言ってきた。通りの向こう側からのその大きな声は、お腹まで響いた。生まれる日の夕方、隣の公園を一人で散歩して、珍しい鳥に会った。あとから思うと、その鳥は電線の上から、もうすぐ生まれる赤ちゃんの気配に寄り添っていた。

神谷さんが夜中に来るまでは、陣痛の波のあいだをゆっくり過ごした。6畳の畳の部屋が宇宙船、長火鉢にくべた炭が動力で、友だち夫婦や両母、祖母も乗り込んで、宇宙からポトリ落ちてくるむすびを迎えにいった。そんな感じだった。

2人目のいっそうのお産は、七夕の満月の夜、カーテンが気持ちの良い風でゆらゆらと揺れる中だった。家族が疲れてみんな仮眠をとりに行ったすきに、わたしと神谷さんだけのときに静かに出てきた。

神谷さんはあんまり余計なことは言わない。伴走者みたいに、状況を整え(家族に指示を出したり)、見守って、絶妙なタイミングでささっとアドバイスをくれる。赤ちゃんとより一対一になれるような、寄り添いかた。いっそうは、ゆっくり海の重さと月の引力を感じながら、船を漕いで出てきたみたいだった。今も彼が一人でたんたんと、何かを見つけて向き合っているとき、わたしはそのときの波長を思い出す。

結局、3人目は、そのあと、どこで産むのかがちゅうぶらりん(もう自分たちだけでという覚悟もムクムク)なまま、震災が起きた。妊婦には放射能は危険なので、避難していた宮崎の病院で診察を受けると、全く問題がなく、自宅出産をすることになった。ずっと住みたかった海の近く。

太陽のくに宮崎の、一年で一番太陽の力の強い夏至、お姉ちゃんとお兄ちゃんが見守ることのできる日中に、ひらくは出てきた。手伝ってくれたのは、母子で開業してる助産師の安藤先生親子。翌日は、安藤さんの娘さんの出産のときに、お母さんが作ったのとおんなじちらし寿司を、お祝いにいただいた。今日は9歳だけど、生まれた当日は、友達が0才の誕生日ケーキを作ってくれたんだった。

あるときふと気づいたのは、そして今でもそう思うのは、胎児のひらくが、家族みんなを宮崎に連れてきたんだということ。

きっと上の2人の経験があったから、最初の難関で、わたしはさらっと、ひらくを信じられたんだと思う。そして、その感じは、生まれてからも続いている。例えば、保育園を転園したばかりのとき、「みんながひらくと喋ってくれないし、意地悪なんだよ。」と、泣いたとき、すぐに大丈夫だって思えた。「ひらくなら大丈夫。みんなだって急に面白そうな子が来てほんとは気になって戸惑ってるんだよ。ひらくがどういう子か知ったら仲良くなれるから。そして、ひらくは意地悪はしない人になればいいよ。」って、一対一で話した。多分そのとき辛い思いをしたことが響いて、ちゃんと自分で向き合ったことが残って、今、友だちに優しい、人の痛みの分かる少年に育ってる。昨日、友達と大げんかしたけれど、こっそりその子も誕生日に誘っておいた。ひらくなら大丈夫って思えたから。それは、嬉しそうに遊んでた。

もしかしたら、あのとき、「入院するくらいなら帰って自分で産みます」って言ったのは、わたしじゃなくてひらくだったのかもしれない。
だってそこには、もう、2人居たんだもん。

昨日、ケーキを食べ終えて子どもたちに話してたことはね、「胎児ってすごい」ってことを、どうか覚えておいてほしいってこと。みんな、とても嬉しそうに聞いてた。

赤ちゃんは、直接は見えないけれど、お腹の中にもうちゃんと居て、意思と、子どもたちともちょっと違う、特別なちからを持っている。わたしはあんまりスピリチュアルなことを盲信するタイプではないけれど、生まれる10ヶ月も前からそこにいる人たちの力を、何度も確信してきたよ。家族の状況にとって、ミラクルなことが起きる、運命を大きく動かす、そういうのは、たいていお腹の赤ちゃんの仕業。

*自宅出産
昔は当たり前だった自宅出産は、今ではお産全体の0.1%。
日常のリズムのなかでリラックスして余計な医療介入もなく、みんなで赤ちゃんを迎えられるよ。神谷整子さんのみずき助産院のリンクより:
https://r.goope.jp/midukijosanin




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