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ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード8「過去の秘密」

日本モーリス・ラヴェル友の会では2016年5月よりフランス国内で報じられてきましたラヴェルの著作権や遺産問題について折に触れてきましたが、その時期、フランスのテレビ局やインターネット上で公開されましたドキュメンタリー映像《Qui a volé le Boléro de Ravel ?》(誰がラヴェルのボレロを盗んだのか)の監督であるファビアン・コー=ラール氏とコンタクトを取り、この映像作品の9章のエピソードの日本語訳の翻訳権を得て、2017年から2018年にかけて連載企画として当友の会Facebookページにて台本を掲載しました。

本年2月14日、フランスで「ボレロ」裁判が始まったことを受けて、改めてラヴェルの著作権・遺産問題を振り返るために、こちらnoteにて再掲いたします。

上のYouTubeの映像と共にご覧ください。
ピクチャインピクチャの設定で台本と映像が同時に観られます。



ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 
1998-2007年 エピソード8「過去の秘密」


1998年1月。ボレロの共同著作権所有者であるジャン=ジャック・ルモワーヌが世界中にダミー会社を量産している頃、フランス国家は徐々にその過去の闇を暴き始めていた。

INA(フランス国立視聴覚研究所)アーカイヴ、フランス3より抜粋:
「(当時の首相)リオネル・ジョスパンは、第2次大戦中のフランス系ユダヤ人たちの略奪の程度を明らかにするため設立されたマテオリ委員会※による最初の進捗報告を受けた。 」

※1997年発足。ナチス占領下で占領軍やヴィシー政府が行ったユダヤ人からの「略奪」行為の調査を任務としているフランス政府の正式委員会。レジスタンスの闘士であり、かつての抑留者でフランス経済社会評議会の議長ジャン・マテオリ氏が委員長を務めているため、通称「マテオリ委員会」と呼ばれている。

その1年後、SACEMを糾弾するスキャンダルが起こった。

1941年当時のSACEM全会員に送られた通達文が、フランス国立中央文書館で発見され、それが当時の法務部長ジャン=ジャック・ルモワーヌの手になる文書であると判明したのだ。

通達文には、ヴィシー政府の命により、ユダヤ人会員の印税はSACEMの管理下に置かれた凍結口座に一旦支払われ、次いで預金供託金庫(訳注:通称CDC=Caisse des Dépôts。フランス復古王政期の1816年に設立された資産集中運用機関)に振り込まれるという内容が記されていた。

問題は、預金供託金庫にその痕跡やいかなる受領証も見つけられなかったことである。

ピエール・サラグーシ(預金供託金庫のユダヤ人財産の捜索に関する調査責任者)
「SACEMは、ヴィシー政府から受けた命令や、預金供託金庫へ預けた金額を示す証拠らしいものを提出しています。ですが今日、我々は何が起きていたかをすべて知っています。実際には(正式な書類は)何も見つからなかったのですから…。」

大論争が沸き起こった。ユダヤ人の作家たちは、本来彼らに支払われるはずだった印税を略奪されたのだろうか?

フランス3より抜粋:
「占領下のSACEMは特に(印税の略奪に)熱心だったのでは?…」

SACEMのジャン=ルー・トゥルニエ会長は批判を一蹴した。

「もしそれが事実なら、1945年に何が起きるか想像してみたまえ。そんなことをした者は全員、浄化委員会によって直ちに訴えられ、ユダヤ人作家たちに首根っこを捕まえられて刑務所に放り込まれただろうよ。1945年がどんな年だったか、あなたもよく知っているだろう、今言ったことが冗談ではないこともね。さあそれで、実際はどうだったか?何も起こらなかったのさ。」

マテオリ委員会はこの件の調査に乗り出し、SACEMは機密書類の開示を余儀なくされた。6ヶ月の調査の後、結論が下された。

「残念ながら、SACEMの書類管理の不備により検証は不可能である。これらの金額が入金されたことを証明する書類はどこにもなく、支払いに対する正式な領収書も保管されていない。」

12,500名を超える会員のうち、わずか数百名に事情徴収をしただけで調査は終わった。帳簿類はすべて失われてしまっていた。

アンドレ・シュミット(弁護士)
「何が起こったのか、私にも正確にはわかりませんでした。私がSACEMに入ったのは1955年でしたし。それから数年後に証拠書類を探そうとしましたが、見つけられませんでした。」

イザベル・アタール(代議士)
「この種の問題には、常に不透明なヴェールが掛けられてしまうことに、私たちは気づいています。単なるドイツ軍やナチスからの命令や、軍人の問題などではないからです。当時の国家のために働いていた公務員が、どこかの過程で必ず関わってきてしまうという、最終的にフランス人全体の問題に発展してしまうから。」

不思議なことに、この問題の最も重要な証人であるジャン=ジャック・ルモワーヌは、マテオリ委員会に出頭されることは決してなかった。

ダニエル・エノック=マイヤール(現エノック社 社長)
「彼はすべてを周知していたでしょうからね。つまり関わった全ての人間について、多くのことを知っていたから。」

クリスチャン・ユロー(SACEM法律顧問)
「彼はどちらかというと舞台裏で活躍するタイプですね。私個人の意見ですが、裏で糸を引く人物というか…。特にジャン=ルイ・トゥルニエには、彼の相談役として強い影響力を持っていたと思います。聞くところによるとトゥルニエは、ジャン=ジャック・ルモワーヌのアドバイスなしには重要な決定はしない、とまで言っていたそうです。」

もし、全てが繋がっていたとしたら?
沈黙には沈黙を。過去の忘却には機密保持を。

同じ頃、コモロ(訳注:正式名コモロ連合、アフリカ南東沖合インド洋にある諸島で1975年まで仏領だった)では、歌手ハス・モーサが自身のやり方でラヴェルの音楽を讃えていた。

ハス・モーサ(ミュージシャン)
「この地に生まれた私の子供たちは、最初、モーリス・ラヴェルを知らなかった。モーリス・ラヴェルを知ったのは、この曲を通してだった。私の国コモロの人々は、誰もモーリス・ラヴェルを知らなかった。この曲を通して、《ボレロ》を通してみんな知ったのです。」

しかし、このレゲエ・ミュージシャンは警告を受けた。

警告文(訳注:2000年3月9日付)を読むハス・モーサ:
『モーリス・ラヴェルの《ボレロ》の曲使用に際し、演奏方法やジャンル、演奏目的および楽器編成について、いかなる変更も禁止します。』

文面にはジーン・マヌエル・ド・スカラノの署名があった。ニーナ・シモンのブルース曲のディスコアレンジで富を築いた人物が、ハス・モーサの《レゲエ・ボレロ》を検閲していたのだ。

その15日後、《ボレロ》の共同著作権所有者である彼は、自身が所有するデュラン社と名高い作曲家たちの楽譜目録を、自身がかつて買収したときの7倍の価格で、多国籍企業のBMGミュージックパブリッシングに売却した。

1985年制定のラング法によって付与された20年間の追加保護期間により、特上の付加価値がもたらされたのである。

数ヶ月の間に、仏誌『ル・ポワン』と英紙『ガーディアン』による2つの調査が行われ、《ボレロ》の金がタックス・ヘイヴンの闇に流れていることが明らかにされた。

すると、それまで25年間ジブラルタルに拠点を置いていたARIMA社は、衛星のレーダーから消滅した。その調査記事が出てからわずか1年後に会社は解散したのである。

その頃、アメリカ・ネブラスカ州オマハでは、ジャズ奏者ケビン・パイクのサックスによる《ボレロ》が、フィルム・ノワールの郷愁に満ちた響きを奏でていた。

一方で、法律が再び変わることになった…。
遡ること数年前、欧州連合(EU)本部のあるブリュッセルでは、EU加盟国において、すべての精神活動による作品の著作権保護期間を70年に延長するという指針が打ち出されたのだ。

エマニュエル・ピエラ(弁護士)
「ヨーロッパ全土で、今後は、作者の死後70年まで計算しなきゃならなくなった。またついていないことに、文化省では、著作権法の規定に戦時加算があることを忘れていたのさ。彼らは70年の期間延長に難なく合意した後、戦時加算規定の削除を忘れていたことにも、何の疑問も持たなかった。これが訴訟の火種となることは明白でしょう。」

2007年2月、美術出版社ハザンが、クロード・モネの絵画『睡蓮』を許可なく複製した。著作権管理団体ADAGP(La Société des Auteurs des Arts Graphiques et Plastiques グラフィック・アート及び造形芸術作家協会)は即座に抗議した。

協会にとってモネの作品は戦時加算期間中であるという認識があり、更には、欧州連合によって70年の追加延長期間が新たに加えられていた事実もあった。

法学者の間で激しい議論が沸き起こった。破棄院(仏の最高裁判所)により、モネの著作権消滅は死後70年という判決が正式に下されたのだ!

モネ事件における破棄院の判決は、ひとつの判例となるか?
《ボレロ》もまた、モネの『睡蓮』のように、予定より早く著作権が消滅する日が来るのだろうか?


(エピソード9 につづく)

※当ドキュメンタリーの日本語訳の翻訳権は日本モーリス・ラヴェル友の会に帰属しております。翻訳文の無断コピー及び転載は禁止となっております。なおシェアは推奨しております。

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