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ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード7「税の楽園(タックス・ヘイヴン)」


日本モーリス・ラヴェル友の会では2016年5月よりフランス国内で報じられてきましたラヴェルの著作権や遺産問題について折に触れてきましたが、その時期、フランスのテレビ局やインターネット上で公開されましたドキュメンタリー映像《Qui a volé le Boléro de Ravel ?》(誰がラヴェルのボレロを盗んだのか)の監督であるファビアン・コー=ラール氏とコンタクトを取り、この映像作品の9章のエピソードの日本語訳の翻訳権を得て、2017年から2018年にかけて連載企画として当友の会Facebookページにて台本を掲載しました。

本年2月14日、フランスで「ボレロ」裁判が始まったことを受けて、改めてラヴェルの著作権・遺産問題を振り返るために、こちらnoteにて再掲いたします。

上のYouTubeの映像と共にご覧ください。
ピクチャインピクチャの設定で台本と映像が同時に観られます。


ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード7
1988-1997年 「税の楽園(タックス・ヘイヴン)」





1988年の《ボレロ》著作権消滅の日は、その3年早い『ラング法第7条の2』の可決のおかげで、20年先まで延期された。

権利所有者であるジーン・マヌエル・デ・スカラノ、ジョルジェット・タヴェルヌ、そして謎の人物ジャン=ジャック・ルモワーヌにとって、予想を上回る延長期間であった。

大西洋の向こう側では、この新しい法律について知らない人物がいた。伝統破壊主義者、フランク・ザッパである。彼は生涯最後のツアーを開始したところだった。

12人のミュージシャンによるビッグ・バンドは、ジャズとレゲエにインスパイアされたカクテルのような《ボレロ》を演奏した。しかし1991年のBBC Radio 1でザッパは語った。

「ラヴェルの《ボレロ》について我々は、イギリスでは著作権を消滅しているが、残りの国では2003年までは保護期間内であるというようなことを、つい最近知った。」と。

アルバム「ザ・ベスト・バンド」(原題:The Best Band You Never Heard in Your Life)はラヴェルの権利者達によってリリースを禁じられた。

アルバムは「冒瀆的なヴァージョン」とみなされ、ザッパ側はレコード店からすべて回収しなければならなかった。

ザッパはラヴェルの音楽を愛し、ラヴェルはジャズを愛した。

では何故、世界で最も有名で強力なこのオマージュが禁じられたのか?

エマニュエル・ピエラ(弁護士)
「ジャズやロック、またはそれ以外の音楽をベースにした編曲やアレンジを、その時々の勝手な理由で禁じてはいけなかったんです。モーリス・ラヴェル自身が、すべての編曲は禁止するとか、すべての新しい音楽を憎悪しているなどと意識的に書き遺していない限りはね。」

ジャック・ラング(元文化大臣)
「そもそも何に基づいて、作家や文筆家、作曲家と本来非常に縁遠い人間が、その作品の使用許諾や検閲、禁止を他人に課すという道徳的権利を行使することができるのでしょうか。」

それに反して《ボレロ》のカネには、乗り越えるべき障害や国境など何一つなかった。

正体不明の人物ジャン=ジャック・ルモワーヌは、スイス国民になっていた。

著作権の共同管理者(スカラノ)から、フランス国籍の放棄を依頼されたからだった。

ルモワーヌがジブラルタルで経営する組織『ARIMA』にも変化があった。

名称を『芸術著作権国際管理機関(Artistic Rights International Management Agency =ARIMA)』から『音楽家及び芸術家国際著作権会社(Author’s Rights International Musical & Artistic Corp.=ARIMA)』に変更したのだ。

新しい子会社は英領ヴァージン諸島のトルトラ島を本拠地とした。

以前とまったく同じではないが、まったく別物でもないその会社、同じ綴りの略称『ARIMA』だけが錯覚を起こす。

1992年、《ボレロ》の直筆の初稿譜が発見され、オークションが開催されると報じられた。

外国人バイヤーが殺到し、仏音楽界の代表団から文化大臣宛に嘆願書が送られた。曰く「自筆譜がフランス本国を離れることがあってはならない」と。

1992年4月8日、《ボレロ》の自筆譜がドゥルーオ(訳注:パリ最大のオークション・ハウス)で競売にかけられた。

カトリーヌ・マシプ(フランス国立図書館 音楽部門長)
「会場はいっぱいでした。ラヴェルの《ボレロ》は、競売の最後の方に回されていたので、緊張状態が2時間ほど続いたと思います。そしていよいよ、その最高潮を迎えた瞬間、私たちは非常に素早く動き、適切なタイミングで、最良の対応をしなければなりませんでした。」

オークション場面(抜粋)
「さて次は《ボレロ》の自筆譜です。鉛筆書き、31ページ。これは《ボレロ》の初稿のスケッチです。では、120万フラン(当時の為替レートから換算して、約3500万円)から開始します。
120万フラン
130万、
135万、
140万、
145万、
165万、
180万、、、
《ボレロ》に180万以上の値を付ける方はいませんか?では落札ですね。2列目落札!180万フラン(約5200万円)、先買権(※博物館などが個人に優先して買い上げる権利)により国立図書館が落札!」

先買権を用い、国立図書館に代わって国がその貴重な自筆譜を180万フランで購入した。

ジャック・ラング(元文化大臣)
「当時、私は幸運にも フランソワ・ミッテラン大統領のおかげで、大規模な(文化財の)買収予算を得ていました。そうでなければ個人蒐集家の手に渡っていたであろう数多くの作品を、美術館や国立図書館のために入手することができたのです。」

この自筆譜は現在、国有財産となった。それでも、相続人の同意なしにこの貴重な資料を複製することはできない。

エリザベス・ジュリアーニ(フランス国立図書館 管理部長)
「申請があまり多くないのは、少し下品な言い方をすると、誰もがラヴェルは"絡まった紐の塊(厄介事)”だと知ってるからよ。」

その年《ボレロ》は、SACEM曰く、世界に最も輸出されたフランスの音楽作品となった。

《ボレロ》は、メキシコの6人組グループ "ロス・バロン・デ・アポダカ(Los Baròn de Apodaca)"により、北メキシコのクンビアとポルカが融合した伝統音楽《ノルテノ》に様変わりしていた。

《ボレロ》と同様、ジャン=ジャック・ルモワーヌも転地した。スイスを離れ、モナコに移住した彼は、繊細な客人として振舞った。

1993年、彼は《ボレロ》の自筆譜1ページをモナコ公国のレーニア王子に贈り、その2年後には公国の守護聖人の名にちなんで『サンクタ・デヴォタ(Sancta Devota)財団』を設立した。この新組織は以後、王族による人道的活動を後援していくことになる。

そのモナコから程近いイタリアでは、《ボレロ》は二人組のユニット”モンテフィオーリ・カクテル”と共に、味わい深いラウンジ・バーの雰囲気の中で客を酔わせていた。

1997年、新たな会社が《ボレロ》の著作権の共同所有者となった。その名は有限会社レッドフィールド(Redfield BV)。アムステルダムに登記され、インターシティ・コーポレイト・マネージメント(Intercity Corporate Management)という信託会社によって運営されていた。

《ボレロ》の共同著作権所有者であるジャン=ジャック・ルモワーヌは、引き続き子会社の世界進出を拡大させていくのだろうか。

アラン・ジュペ首相(元フランス首相、在任期間 1995-1997年)により開始された、戦争中のユダヤ人財産の捜索に関する調査委員会で、彼の過去は再浮上することになるのだろうか。


(エピソード8 につづく)

※当ドキュメンタリーの日本語訳の翻訳権は日本モーリス・ラヴェル友の会に帰属しております。翻訳文の無断コピー及び転載は禁止となっております。なおシェアは推奨しております。

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