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ドキュメンタリー《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》日本語訳台本 エピソード4「遺言書」

日本モーリス・ラヴェル友の会では2016年5月よりフランス国内で報じられてきましたラヴェルの著作権や遺産問題について折に触れてきましたが、その時期、フランスのテレビ局やインターネット上で公開されましたドキュメンタリー映像《Qui a volé le Boléro de Ravel ?》(誰がラヴェルのボレロを盗んだのか)の監督であるファビアン・コー=ラール氏とコンタクトを取り、この映像作品の9章のエピソードの日本語訳の翻訳権を得て、2017年から2018年にかけて連載企画として当友の会Facebookページにて台本を掲載しました。

先月14日、フランスで「ボレロ」裁判が始まったことを受けて、改めてラヴェルの著作権・遺産問題を振り返るために、こちらnoteにて再掲いたします。

上のYouTubeの映像と共にご覧ください。
ピクチャインピクチャの設定で台本と映像が同時に観られます。



ドキュメンタリー映像《誰がラヴェルのボレロを盗んだのか》 
エピソード4
1958-1967年「遺言書」


1958年1月、モーリス・ラヴェル唯一の相続人である弟のエドゥアールは、サン=ジャン=ド=リュズの邸宅をマッサージ師のジャンヌ・タヴェルヌに譲渡し、全ての銀行口座の管理を彼女に委任した。

パリにいるラヴェルの編集人ルネ・ドマンジュは、ジャンヌ・タヴェルヌの影響力が高まったことに不安を感じていた。

オペラ座ガルニエでは、モーリス・ラヴェル没後20年を迎え、特別公演が催された。弟のエドゥアールは名誉招待者であった。その晩、彼は兄から継承した権利の80%をパリ市に遺贈すると約束。

その3日後、市庁舎でレセプションが開かれた。
市長室では寄付の約束を誓い署名がなされ、エドゥアールはパリ市から金メダルを受け取った。

しかしエドゥアールはサン=ジャン=ド=リュズに戻って考え直した。彼はドマンジュにこう通知した。自分はジャンヌ・タヴェルヌを包括受遺者にする、パリ市には一銭も渡さない、と。

さらに、相続遺産を詐取したとしてドマンジュを提訴する、とも警告した。

ドマンジュは次のように返答した。「幸いに、あなたは精神的に十分正常でいらっしゃるから、多少合意に欠けていたとしても、寄付の約束自体に問題はないでしょう。」

アンドレ・シュミット(弁護士)
「寄付の約束は”から約束”であり 、何の効力もなく、存在すらないものとされた。だからこそ、繰り返して言うが、ドマンジュは法律には無頓着だったのだ」

だがのちにルネ・ドマンジュは、この時の自身の発言についてひどく後悔することになる。

エドゥアール・ラヴェルは、タヴェルヌ夫妻を伴って、パリ市内の楽譜出版社デュラン社本部を訪れた。実に20年経って初めて、ラヴェルに関する契約書とこれまで遺産により得た利益の引き渡しを要求したのだ。

翌日、エドゥアールはマッサージ師のジャンヌ・タヴェルヌに彼の財産と権利の全てを遺贈することを決定した。

ただし、兄モーリスの家ベルヴェデールと、家にある家具や文書類だけはフランス国立博物館へ寄贈するとし、タヴェルヌへの遺贈目録から除外された。

2年後、ジャンヌ・タヴェルヌは夫アレクサンドルに対して離婚を申請した。夫婦関係が悪化していたのだろうか?

カトリーヌ・イリバレン(看護師)
「彼女と夫との間に不和は無かったわ。そう言ってるなら嘘よ。とても仲が良かったわ。」

真実は別にあった…つまり、ジャンヌが天文学的な金額の相続税を支払うかもしれないという状況。そしてそれを逃れる方法は、エドゥアールと結婚することだった。

しかし、未来の新郎エドゥアール・ラヴェルがジャンヌの指に結婚指輪を嵌める時は永遠に来なかった。

なぜなら彼は結婚式の8日前、1960年の4月5日に亡くなってしまうのだから。

3ヶ月後、離婚していたタヴェルヌ元夫妻はビアリッツで再婚した。病める時も健やかなる時も、苦楽をともにするために。

その頃、ブリュッセルで、モーリス・ベジャールが《ボレロ》を完全に自身のものにしていた。
上半身は裸、手のひらは外側へ向け、まるで死へ挑むかのように踊り、愛のパレードとしての《ボレロ》を創り上げた。

デュラン社のドマンジュは、自分が莫大な損失をする事態に陥ったことに、ようやく気づいた。

急を要する事態となった。なんとしても血縁の相続人を見つけねばならなかった。

ところで、モーリス・ラヴェルにはスイスにヴァイオリニストの従兄弟がいた。

ラジオ放送局のラジオ・スイス・ロマンドにある問合わせがあった。1月初旬にはその従兄弟の子の存在が特定された。
この人物こそマルク・ペランである。彼はスイス・ロマンド管弦楽団のトロンボーン奏者だった。

マニュエル・コルネジョ(仏ラヴェル友の会 会長)
「彼ら(ラヴェルとペラン)の関係は古くから続いていた。モーリス・ラヴェルもジュネーヴやスイス国内で定期的にコンサートを行う機会があったので、その時には欠かさず親戚を訪ねていたようだ。」

1961年4月、バイヨンヌにおいて、ラヴェルの従兄弟の子供たちは相続権を求め提訴した。

彼らは、エドゥアールの遺言書は暴力と不正行為によって作られたものだと主張した。

イエイエ(訳注:主に60年代のフレンチ・ポップスを好む若者)世代向けの放送やテパーズ(訳注:60年代にフランスで人気を博したポータブルラジオ&レコードプレーヤー)の流行に乗り、ジルベール・ベコーは《ボレロ》のアレンジソング《そして今》をリリースし、人気を博した。

ジャンヌ・タヴェルヌは裁判には出廷しなかった。彼女は1964年4月12日にこの世を去った。

新聞はこの事案に関心を持ち、初めて部数を伸ばした。報道によると、タヴェルヌ夫人が亡くなる前年の1年間だけで、彼女は2億5000万フラン(訳注:当時レートから日本円に換算して約4億6000万円)を受け取り、そのうち9200万フラン(約1億7000万円)は《ボレロ》だけで得たものと伝えている。

1965年11月、バイヨンヌの大審裁判所にて裁判が行われた。弁護士会の大物がラヴェルのいとこ甥いとこ姪の弁護を務めた。

弁護人は、(タヴェルヌ夫妻による)悪魔のような支配について語った。エドゥアール・ラヴェルは屈辱的な扱いを受け、苦痛に見舞われたであろう。

老いた彼は女主人と運転手となったその夫に全てを支配されていた。そして突然、エドゥアールの死亡通知が、タヴェルヌ夫妻の所有となったヴィラ・マイアッツァから送りつけられたのだ、と。

二人は離婚しても一つ屋根の下でいつも一緒だった。これは偽装離婚の証拠だった。提訴を受けて、被告側の弁護人は、エドゥアール・ラヴェルの精神状態は至って正常で、自分の意思で遺言書を作成したと強く主張した。

そして7年前にルネ・ドマンジュからエドゥアールに送られた手紙を証拠として提出したのである。ドマンジュ自身がエドゥアールは頭がしっかりしていると言っていなかったか?と。

アンドレ・シュミット(弁護士)
「(ドマンジュによる)驚くべき失態だったよ。この裁判において致命的な敗因となってしまった。致命的だよ。」

1966年5月3日、判決が下された。裁判官は、エドゥアールの精神状態は正常であったとし、彼に遺言書を無理やり書かせたという証拠は見出せなかった、と結論付けた。

エドゥアールの従兄弟の子たちの訴えは棄却された。

別荘(ヴィラ・マイアッツァ)でのアレクサンドル・タヴェルヌへのインタビュー(抜粋)
インタビュアー「タヴェルヌさん、この遺産であなたには大金がもたらされますよね。聞くところによると、1億フラン(約1億7500万円)とも言われている。年に1億フランということですが。」

タヴェルヌ氏「うーん、そんなことはわからないよ。確かに今現在、ラヴェルは演奏されている。だけど明日にはもう演奏されないかもしれないよ。」

オーストリアでは《ボレロ》はシェーカーに移され、ルイーズ・マルティーニは手下とともに《カクテル・ボレロ》を作り上げた。

報道によると、アレクサンドル・タヴェルヌはモーリス・ラヴェルのキャビネットから1500点に及ぶ未発表の自筆資料を発見した、という。

彼はその至宝をどうやって手に入れたのか?

モーリス・ラヴェルのいとこ甥いとこ姪は再び訴訟を起こしたが、果たして今回は勝訴できるのだろうか?

そしてこの頃、ルネ・ドマンジュはイギリスとアメリカにおける《ボレロ》の権利を失ってしまったことに気づいていたのだろうか。


(エピソード5につづく)

※当ドキュメンタリーの日本語訳の翻訳権は日本モーリス・ラヴェル友の会に帰属しております。翻訳文の無断コピー及び転載は禁止となっております。なおシェアは推奨しております。

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