私本藤原範頼 西行の章7

剣を探す


天叢雲剣。
別名草薙剣。
日本武尊御自ら振るったという宝剣だ。
どう海中に没したかには、いくつか筋立てがきかれた。
二位尼が死を決し、幼き安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰に差し、神璽を抱えた、というものと、二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察(あぜち)の局なる女人が安徳天皇を抱いて入水した、というもの。
私は二位尼が跳ぶのをこの目で見た。
だから真実は前者であろう。

安徳天皇が、

どこへ連れてゆくのだ

と尼に問い、尼は

波の下にも都がございます

と答えたともいうが、たれがそれまで聞いたというのか。
どんどん作文がひどくなっておる。
作文といえば、屋島で船を八艘飛んだ義経の実際が、壇ノ浦で、逆話として伝わっておるらしい。

平教経に対決迫られたのに、八艘飛んで逃げたらしい。

教経とは?

平教盛の次男にして平清盛の甥じゃそうな。
初名は国盛じゃと。

数々の合戦において武勲を上げ、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことのない」武士だそうじゃ。

「王城一の強弓精兵」とも聞いておる。

平家随一の猛将であろ??
知っとる知っとる。
都落ち後、ぐんぐん劣勢となる平家の中で独り気を吐き、水島でも屋島でも、奮戦して源氏を苦しめたんじゃよな。
壇ノ浦でも、敗戦の流れ押し返さんとさんざんに戦い、源義経に組みかかろうとその船に飛び移ったが、義経のやつめは八艘飛んで逃げたらしい。

まっこと東国武士の風上にも置けぬ。

それが義経よ。

あんまりな言いようである。
私も最近の義経には、あまりいい感情はないのだが、こうまで嘘偽りで塗り固められてしまうと、厭みの一つも言いたくなるというものだ。

私は甲斐源氏と縁深いのだがな。
武田信義殿の手足となって働いておったこともある。
教経は一の谷で安田義定殿の軍に討ち取られ、京都で獄門になっておるので、屋島や壇ノ浦にはおらぬと思うのだがな。
安田殿は武田殿のご実弟であられる。
安田殿は一の谷で、架空の手柄を語ったのでござろうかな?

東国武士たちは青ざめた。
私の話ではなく、私が総大将であることに気づいたからだ。
けれどそれでも、いつまでも、義経の八艘飛びは、逃れ話のように語られ続けた。
たれかがわざと語っておるに違いなかった。


讒言


武田勢もそろそろ甲斐に帰るという。
信義殿の子息・有義殿が挨拶に来たが、何やらそわそわしている。

有義殿?

範頼殿。
あまり梶原殿を刺激なさらぬがよろしい。

梶原?
景時殿のことか?

有義殿は人目を気にしつつ、そっと頷いた。

あの方は、今水面下で、義経殿を貶め続けておられる。
鎌倉殿と懇意で在られるのをご利用なされて、義経殿を悪う悪う書いた手紙を出したと聞く。
義経殿もよくない。
風来坊のように現れては、いいところだけさらってゆくから…
範頼殿もくれぐれも、巻き込まれぬように。

そして囁くように付け加えた。

私も…唐針欲しかった。
義経殿を羨みました。
今はあなたを。

ちょっと笑って去った。
私の馬はこうも罪作りだったか。
それでも私は嬉しかった。
唐針がいま私のものであることが、とても嬉しかった。

それでも地球は回っている