これを書かせてどうする


私だって覚えてるさ。

神奈川に居たってひどくうねった地面。

全停電の町。

信号も消えていた。

慌てた夫は私と子だけ連れて車で逃げようとした。

生母を忘れていったのだ。

真っ暗な町内を一周して、

行き場もなく家に戻った。

神奈川でこうだったんだ。

福島、どんだけ揺れたんだ?


みるみる上がってくる水に、

津波てんでんこの教えを守って生き延びた人々の英知に、

ひたすら頭下がる。


で?


東電は、

なにをした?


今も、

なにしてる?


原発の

安全を

標榜し続けたあんたらは

全被害償い終えたのか?


え?



何でこんなことを言うかというと、

警鐘はずっと鳴らされていた。

それを、


ずっとわらってた推進派の態度を知ってるからだ。


1943年1月24日。

広瀬隆氏が生まれた。

同氏は著書タイトル、

「東京に原発を」

のインパクトで知られる。

安全だ安全だと言うなら、
なぜ原発を東京に置かないのだ

という本。

至極ごもっとも。

なのに東日本が起きるまで、
広瀬氏は、

原発怖いよー

の言い過ぎやろうのように扱われ続けていた。

東日本後のいまも、
復権できたとはお世辞にも言い難い。

警鐘を鳴らしていたのに。

著書に誤りがあるとか何とかいろいろ。


でもね。


政府から経済界から口をそろえて、
安全安全言いまくってた中で、

なら東京に置きましょうよ

と言った、ほぼ唯一の人だと私は思ってる。

そのかたにはもう少し、

敬意を払ってもいいのではないでしょうか?



てめーのことだよ豊田有△。
私はあなたの小説大好きだった。
ヤマトタケル
も、
パチャカマに落ちる陽
も。
地球の汚名
はちょっとだったけど、
一時は本当に大好きだったんだ。


でもあの夏。
広瀬氏との対談(雑誌『通販生活』に掲載された)。

ひどかった。

見るに耐えなかった。

広瀬氏が論拠として示すものを一切見ようともせず(目を向けることさえしなかったようだった。もちろん手にも取らない)、

私は日本の技術を信頼してますから

ばっかし言ってた。
広瀬氏が地方紙の記事を示すと、

大新聞が報道しないのだから些末なことなのだろう

と言い、これも手に取らなかった。

心底怒り、覚えました。

今では名前も見たくないくらい。

悲しいくらい嫌いになりました…


今だに原発好きで、側についてると聞いています。

封じ込めえないものをまだ利用し続けたい

という、思考回路は楽しいですか?

必要悪、ですか??



数日前、NHKで、加害者としての東電社員を再現ドキュメント風に描いてましたけど、

許しを受けた数人の誠意を以て、東電の誠意とする

その構成に呆れ果てました。



誰も許してない。


東電も。


作家豊田も。


区切るのは10年じゃない。


東電が全部片付けて立ち去る日だと、私は思っている。


#それぞれの10年

それでも地球は回っている