私本義経 屋島合戦2
後藤殿は預けられた弓を掲げたまま、畠山重忠殿を見やる。
いやいやとご老体がご遠慮なさるのを見、次に東国武士、那須十郎を見やるが、かれは腕に怪我をしている。
聞けば一ノ谷での怪我だという。
いかに弓の名手でも、弓手に負傷していては、良い結果など残せるはずがない。
名人上手がだめならば、たれがこの重責を担うのだ。
わが弟(てい)、与一がよろしいかと。
与一。
呼ばれて現れたのは、鎧が歩いているのかと思うほど小さく、幼い、十五、六の少年だった。
十郎が弟、那須与一と申します。
わが弟は、齢十六ながらその腕は、飛ぶ鳥を殺さずに落とせるほどです。
主は黙ったまま頷いた。
どこから狙う。
主の問いに少年は、遠い的をじっと見やった。
その距離およそ四十間(約70m)。
汀にいささか歩み入って良ければ。
波で揺れてるぞ。
風もある。
イケんの?
三郎はぞんざいな口で、与一に問う。
頷くでなくただ一心に的を見やり、愛馬に打ち跨がる与一である。
馬の名は鵜黒(うぐろ)の駒。
漆黒の毛並みが美しい。
汀
沖に船。
赤い的。
金的を射抜いてはならぬ。
では。
狙いは。
鵜黒の駒は波を割り、乗り手の安定を確保する。
南無八幡大菩薩。
鏑矢が、静かに放たれた。
源氏、平氏、ともに息のむ中、矢は、なめらかに波上を進み、がっと一音あって舞い上がる扇。
射抜かれたのは金的でなくその下。
扇眼(おうぎのかなめ)だったのだ。
おおおおおう!!
源氏、平氏、ともにどよめいた。
あまりにも雅な勝負。
敵も味方も満足した、のだが。
興が乗ったのか、平氏の老兵が、竹の根方で舞い出したのである。
長刀を、水車のように回す。
年の頃は五十をとうに…
見事な舞ではあったが、主は露骨に眉を顰め、陸に戻り来た与一に目を振った。
一礼して、与一は愛馬を汀に戻す。
つがえた矢は、征矢。
戦うための矢である。
最初に放った鏑矢は、基本儀式用のもの。
あくまでも余興の捉えだったが、征矢がつがえられたということは、これはもう、戦さである。
この矢もなめらかに波上を進み、音もなく老兵を貫いた。
くるくると、回って波間に消える老兵。
射たぞ。
なんと心ない。
源平ともにざわつく中で、主は明確に言い放った。
わが郎党を殺した報いじゃ。
命のやりとりの場で余興が延々続くと思うが悪い!
ああ。
主は佐藤兄のことを…
雅などより佐藤兄の、凄絶な最期を悼んだのである。
見やると忠信が男泣きに泣いていた。
そうとも。
主はこういう方だ。
ずっとこういう方だった。
かかれえ!!
私の号令とともに、源氏の兵が躍り出た。
激しい矢の応酬。
敵も味方もばたばた倒れるが、どう見ても平氏に分が悪い。
船縁は、大地のようには踏みしめられぬ。
平氏は圧倒的に不利なのだ。
義経えーーーっ!!
範頼殿の声である。
九州方向から現れる船団。
指揮船の舳先に範頼殿のお姿が。
兄上ーーーっ!
と主も手を振る。
ご兄弟、六月ぶりの再会であった。